秀塚神社(重清村秀と重清騒動)
宝暦8年(1758)、阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)組頭の妻・お秀は、村を代表して組頭庄屋の不正を徳島藩家老に直訴しました。結果として組頭庄屋は追放されたものの、お秀も鮎喰河原で打首となりました。村人たちはその墓を「秀塚」として鄭重に供養してきましたが、明治時代になると夫・与右衛門とともに「秀塚神社」に祀られるようになりました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の宝暦年間、阿波国美馬郡重清村では組頭庄屋(他藩でいう大庄屋)の西岡重右衛門が権力を握り、百姓らは難儀をしていました。
宝暦8年(1758)、組頭庄屋が正規のものよりも2割も大きな枡を使って年貢を不正に徴収している件について、村の百姓から徳島藩に直訴をすることになり、組頭の与右衛門がその役目に選ばれました。
しかし、与右衛門は讃岐国(今の香川県)から組頭・角左衛門の娘のもとに入婿に来て日が浅く、まだ人別送りの手続きが済んでいないなど、村の代表として訴願をするにはふさわしくなかったため、女性ながら妻であるお秀が夫に代わって徳島藩家老・賀島主水正に直訴しました。
その結果、組頭庄屋が追放となりますが、お秀は国法に背いたとして4月19日に鮎喰河原において打首となり、夫・与右衛門は妻の四十九日の法要を済ませると、後を追って墓前で割腹して果てたといわれています。
村人たちはその墓を「秀塚」として丁重に供養しましたが、もともと東向きに建てられていた墓石はなぜか必ず西を向いてしまうため、庄屋のいた方角を睨んで憤怨を晴らしているのだと言い伝えたとのことです。
この「重清騒動」は史実として確かなことはわからないものの、明治時代中期には、訴訟事の御利益を求めて参拝者が絶えず、多くの幟旗が奉納されていたという「秀塚」の墓石を移して御神体とし、お秀と与右衛門の両人を祀る「秀塚神社」が創建されました。
また、元の「秀塚」があった場所の前には、子孫の井上氏が昭和15年(1941)に「お秀与右衛門井上家歴代之墓」の墓碑を新たに建立しています。
参考文献
『徳島県美馬郡重清村誌』(重清村職員会編 美馬町友会、1982年)
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社』(神社新報社編 神社新報社、1981年)
秀塚神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
秀塚神社
場所
徳島県美馬市美馬町北東原地内
備考
徳島自動車道「美馬インターチェンジ」の西600メートルほどの高速道路側道沿いの擁壁上にあります。外観はほとんど神社の体をなしておらず、集会所のような建物の中に祀られています。