定藤仙助の墓(定藤仙助と明和一揆)
明和7年(1770年)、備後国(今の広島県)福山藩領で凶作下での年貢増徴に反対する「明和一揆」が起こりました。結果として借米の年賦払いなどの要求が認められたものの、下竹田村庄屋・定藤仙助らが打首獄門となりました。地元には処刑者を供養する墓碑や顕彰碑が建てられています。
義民伝承の内容と背景
備後国福山藩の第3代藩主・阿部正右は幕府老中の要職にあり、江戸での出費が嵩んで藩財政の悪化を招いていました。その正右が老中在職のまま亡くなり、三男の正倫が襲封して第4代藩主になると、叔父の安藤主馬を御勝手御用に登用して藩政改革を積極的に推進しました。
新藩札の発行などで大きな社会的混乱が生じていた明和7年(1770)、福山藩領を大旱魃が襲い、農作物の損害は6万石にも及びました。ついに同年8月24日、安那郡下竹田村(今の広島県福山市)辺りから一揆が起こり、またたく間に全藩に波及し、村々の庄屋や商家が襲われました。
藩は百姓らの要求のうち、庄屋の交代は威信に関わるとして却下したものの、拝借米の15年賦返済など多くを認めました。その一方で、藩主・阿部正倫の指示により責任者の追及も厳しく行われ、安永2年(1773)2月13日には、下竹田村庄屋・定藤仙助と同村の北川六右衛門、下御領村(今の福山市)組頭・渡辺好右衛門の3人が榎木峠で打首獄門となりました。
仙助の墓は今も下竹田地区にありますが、処刑より以前の宝暦8年(1758)の銘が刻まれており、これは藩を憚り意図的に古い墓石を装ったものとみられています。
また、北川六右衛門の子・市右衛門は入牢中の父に毎日のように弁当を届け、藩も親孝行に免じて六右衛門の帰宅を許し、暗に他領に逃れさせようとしたものの、六右衛門本人はこれを潔しとせず、再び牢に戻って処刑されたという話も伝わっています。
渡辺好右衛門は寒水寺に葬られたというものの墓は発見されておらず、元御野村長で郷土史家としても活躍した土肥政長が備後国分寺境内に「好右衛門義挙碑」を建立しています。
参考文献
『広島県史』近世 2(広島県編 広島県、1984年)
定藤仙助の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
定藤仙助の墓
場所
広島県福山市神辺町下竹田地内
備考
山陽自動車道「福山東インターチェンジ」から車で10分、又は竹尋デマンドバス「下竹田」バス停で降りて徒歩3分。竹尋小学校の県道挟んで反対側に「義民定藤仙助の墓」の看板がある。看板に従い坂を登ると道路の舗装が途切れるが、そのまま進んで突当りの山の斜面へ向かうと墓地がある。