元文一揆発頭人慰霊碑(北野村藤九郎と横仙一揆)

勝北非人騒動慰霊碑
野非人姿で袖乞いした一揆の発頭人たちの慰霊碑

2023年6月11日義民の史跡

元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村(今の勝田郡奈義町)藤九郎・与三右衛門が死罪となりました。現地には「元文一揆発頭人義民藤九郎与三右ヱ門之慰霊碑」が建てられています。

義民伝承の内容と背景

元文3年(1738)、美作国は凶作に見舞われますが、幕府領における年貢の取立ては厳しく、皆済期限に当たる翌元文4年(1739)正月以降、困窮百姓が袖乞い(乞食)をしたり、代官所に夫食拝借を願い出る行為が頻発するようになります。

同年3月2日になると、密かに村々に廻された天狗状の呼び掛けに応じた勝北郡の百姓300人余りが、牛の小綱と鎌を入れた荷俵を背負い、古笠・古蓑を着た「非人拵」の出立ちで、勝北郡北野村にある長谷野の地へと集結しました。

彼らは各地の富裕層のもとに押し掛けて米・麦の供出を強要したり、いくつもの綱を結び合わせて屋敷や蔵を引き倒したりしたことから、後に「勝北非人騒動」「横仙一揆」「元文一揆」などと呼ばれました。

この間、勝北郡や吉野郡の庄屋らが一揆勢の動きを制止しようとしましたが、彼らは石礫(つぶて)を打って追い払い、最終的に一揆勢の総数は2,000人余りにも達したということです。

事態を重く見た下町代官所は津山藩に救援を求め、3月6日には津山藩から物頭の北郷門左衛門ら300人ほどが駆け付け、久本村(今の津山市)宗尾坂で一揆勢と対峙しました。

一揆勢は鉄砲隊の空砲にも動揺せず、かえって鬨の声を上げ笑ったといい、続いて実弾が松の枝を薙ぎ払い、水田に水しぶきを上げるとようやく四散したといいます。

その後、発頭人として北野村西分高持百姓の藤九郎、同村東分高持百姓の与三右衛門が捕らえられ、吟味の末、同年10月23日に死罪となりました。

両人は鳥取藩で起きた2月の「元文一揆」に越境参加し、その際の打ちこわしで「金銀米銭其外何品によらす財物多分に盗取」したことが忘れられず、美作国でも一揆を起こして欲心を満たそうとしたのが動機とされています。

いずれにせよ百姓困窮が背景にあることは疑いがなく、身を賭して圧政に立ち向かった義人として藤九郎と与三右衛門を慰霊する目的で、平成15年(2003)、経済産業大臣の平沼赳夫の揮毫による「元文一揆発頭人義民藤九郎与三右ヱ門之慰霊碑」が奈義町内に建てられました。

参考文献

『岡山県史』第7巻 近世2(岡山県史編纂委員会 岡山県、1985年)
『新訂作陽誌』第4巻(矢吹金一郎校 作陽古書刊行会、1914年)
『岡山県勝田郡志』(岡山県勝田郡編 岡山県勝田郡、1912年)

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元文一揆発頭人慰霊碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

元文一揆発頭人慰霊碑

場所

岡山県勝田郡奈義町滝本地内

備考

中国自動車道「津山インターチェンジ」から車で20分、国道53号「滝本」交差点を北に折れて500メートルの路傍に所在。最寄りバス停は「滝本局前」で、JR津山駅から中鉄北部バスで40分、バス停で降車後徒歩10分です。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)