富貴神社(吉松仁右衛門父子冤罪一件)
江戸時代中期のこと、石見国柳村(今の島根県鹿足郡津和野町)の蔵方・吉松仁右衛門は、上納紙を巡る庄屋の不正を代官に告発し、藩主にも直訴しようとして津和野城下に至りました。仁右衛門は延享2年(1745)に処刑されますが、以後城下で火災が相次いだことから、各地に供養塔などが建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期のこと、石見国鹿足郡柳村で蔵方(庄屋に次ぐ村役人)を務めていた紙漉き職人の吉松仁右衛門は、宿谷村(今の津和野町)庄屋・大庭茂右衛門に競り勝って、質流れとなった百姓・万右衛門の田を買い受けました。
このことを逆恨みした茂右衛門は、藩への上納紙の検査にあたる「見取」に際して、連年のように仁右衛門の紙を刎紙(不合格)としました。
不審に思った仁右衛門は、密かに目印として自分の白髪を紙に漉き込んでおいたところ、刎紙となった紙には白髪が見当たらないことに気付き、自分が漉いた紙がすり替えられる不正があったことを暴露しました。
これを遺恨に思った茂右衛門は、柳村・宿谷村を含む配下4か村の百姓に上納紙の年内納付を厳命して意趣返しをしたため、百姓の難渋を見かねた仁右衛門は、青原代官や郡代に期限の緩和を嘆願するものの、既に庄屋からの賄賂が渡っていたため取り合ってもらえませんでした。
そこで仁右衛門は藩主への直訴を決意し、他の百姓も続々と津和野城下に集まりますが、百姓を扇動して城下を騒がせたとして、直訴ができぬままに捕縛されました。そして延享2年(1745)6月25日、処刑に反対した大目付・大谷甚左衛門の奮闘もむなしく、子の治右衛門・十左衛門とともに塔の原刑場で斬首の上、その首を晒されたといいます。
仁右衛門は処刑に当たり「津和野の町を三度焼き払う」と言い残したと伝えられており、その後実際に起きた津和野の大火はその祟りと恐れられ、各地に供養塔などが建てられました。近くは昭和4年(1929)、津和野城下の太皷谷稲成神社の近くに「富貴神社」が勧請されています。
参考文献
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会編 島根県教育会、1927年)
『柿木村誌』第1巻(柿木村誌編纂委員会編 柿木村、1986年)
富貴神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
富貴神社
場所
島根県鹿足郡津和野町柳村地内
備考
太皷谷稲成神社の下に鎮座する。総霊社の角を100メートルほど北に入る。