戸谷新右衛門の墓地(戸谷新右衛門と高野枡一揆)
享保5年(1720)、紀伊国伊都郡(今の和歌山県)高野山領の年貢の不正徴収に関連して、島野村庄屋・戸谷新右衛門が幕府に越訴し是正されたものの、帰郷後に石子詰で処刑されたという伝説があります。現地には新右衛門が生前に用意していたという墓が残っています。
義民伝承の内容と背景
紀伊国伊都郡の高野山領では、年貢の徴収に当たり幕府が寛文9年(1669)に統一した京枡を使わず、容積がより大きな讃岐枡を用いたほか、「差口米」と呼ばれる税もあわせて徴収したため、農民の生活は困窮していました。
そこで興山寺領清水組島野村の庄屋・戸谷新右衛門が高野山の役僧に訴えるものの聞き届けられず、ついに清水組はじめ75か村の総代として、証拠の讃岐枡を持参の上で単身江戸に出向き、享保5年(1720)正月12日、寺社奉行・牧野英成に駕籠訴を行いました。
新右衛門は3年ほど牢につながれていたものの、この間に幕府役人の手によって高野山の不正が暴かれ、讃岐枡の使用や差口米も停止されたため、直訴の目的を遂げて解放されることとなりました。
ところが、新右衛門は故郷で帰宅の機会を待ち受けていた僧侶らに捕縛されてしまい、享保7年(1722)6月19日、高野山奥之院の玉川の河原において「石子詰」(主に僧侶や山伏に適用され、掘った穴の中に罪人を座らせて石を打ち付け、そのまま石で埋め殺してしまう「石打ち刑」の一種)により処刑されたと伝わっています。
明治時代には自由民権運動の高まりとともにこの伝説が人口に膾炙するようになりますが、同時に史実の脚色も進んだとみられます。
現在では、興山寺領町田村(今の和歌山県橋本市)にあった大師堂の支配を巡り、享保年間に新右衛門なる人物が村方と争いを起こし、入牢の末「乍レ生土葬」されたという、伝説のもとになる史実が発掘されています。
橋本市南馬場地内には戸谷新右衛門の墓とされる宝篋印塔が残り、和歌山県史跡の指定を受けています。これには直訴に当たり死を覚悟していた新右衛門が生前に自ら用意したものという言伝えがあり、昭和34年(1959)には隣接地に新右衛門の顕彰碑も建てられました。
参考文献
『橋本市史』(橋本市史編さん委員会編 橋本市、1974年)
『東洋義人百家伝』初帙 上(小室信介 案外堂、1884年)
戸谷新右衛門の墓地の場所(地図)と交通アクセス
名称
戸谷新右衛門の墓地
場所
和歌山県橋本市南馬場地内
備考
京奈和自動車道「橋本インターチェンジ」から車で10分、紀の川堤防近くの共同墓地の外れに建つ。JA紀北かわかみマルガク総合選果場前の道路を東に進んだ突当りに墓地がある。