平井庄屋太兵衛碑(平井村太兵衛と松山藩越訴)
寛文8年(1668)、宇陀松山藩では用人頭による政策のために百姓が難渋し、大和国宇陀郡平井村(今の奈良県宇陀市)庄屋・太兵衛らが江戸に出向いて藩主・織田長頼に直訴に及びました。しかし、藩主は殿中で恥辱を与えたとして立腹し、連座を含めて5人が死罪となりました。現地には庄屋らを供養する墓碑や顕彰碑が建てられています。
義民伝承の内容と背景
宇陀松山藩では3代藩主・織田長頼の時代、用人頭・中山助之進らの政策により、原野荒蕪地の開拓や農民に対する高利貸し、藩札発行などで正租外収入の増加を図りますが、農民の側では負担が増大し困窮するようになります。
そこで寛文8年(1668)、百姓惣代として平井村庄屋・太兵衛と五津村庄屋・甚七郎(ともに今の宇陀市)が連判状を持って江戸に赴き、藩主の織田長頼に対して直訴を行いました。
その際、「願いの趣旨は聞き届けたので藩主が帰国してから追って申し付ける」という趣旨の返答があったため、両人は喜んで在所に戻ったものの、『織田盛衰記』によれば、藩主・織田長頼自身は「惣百姓江戸へ下り殿中にて恥辱をあたへ」たと殊のほか立腹しており、厳しい詮議を受けた太兵衛・甚七郎と子息3人の合わせて5人が死罪となりました。
平井村庄屋・太兵衛らは3月7日に「別所川原上山ついのべといふ所」で処刑されたといい、この事績は長く地元に伝えられ、文化年間には郡中各村から銀214匁を集めて百五十回忌の供養をしたらしいことがわかっています。また、五津村庄屋・甚七郎については『織田盛衰記』に記された別所川原ではなく、五津地内の宇田川沿いに設えられた仕置場において処刑されたという別の伝承もあります。
太兵衛・甚七郎の墓碑の傍らには、昭和46年(1971)に地元及び宇陀ライオンズクラブによって2人の庄屋の石碑が建立されており、今でも顕彰が続けられています。
参考文献
『大宇陀町史』(土井実・池田源太・池田末則編 大宇陀町史刊行会、1959年)
『菟田郷土資料』第1輯 織田盛衰記(菟田郷土史研究会編 菟田郷土史研究会、1938年)
平井庄屋太兵衛碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
平井庄屋太兵衛碑
場所
奈良県宇陀市菟田野平井地内
備考
名阪国道「針インターチェンジ」から車で25分、奈良県道31号榛原菟田野御杖線沿いの「宇陀藤井」バス停より1キロメートル東の道路沿いにある。