義民碑と宝蔵(岡村源兵衛と延宝訴訟)
江戸幕府の「延宝検地」により豊臣秀吉以来の地子免除の特権を取り消されそうになった播磨国三木町(今の兵庫県三木市)では、平田町大庄屋・岡村源兵衛と平山町年寄・大西与三右衛門を惣代に選び、江戸へ出訴することとなりました。延宝6年(1678)には秀吉の制札という決定的な証拠をもとに勝訴を獲得できたことから、町では「宝蔵」を建てて制札を保存するとともに、「義民碑」により2人の功績を讃えました。
義民伝承の内容と背景
丹波国の戦国大名・波多野秀治とともに織田信長に反旗を翻した播磨国の別所長治は、天正8年(1580)、三木城に籠城するものの、本要寺に陣取った羽柴秀吉の「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻め戦術に遭い自刃、三木城は落城します。
この「三木合戦」の後、本要寺で別所長治の首実検を済ませた羽柴秀吉は、城下町の再興を図るために地子銭(屋敷地への税金)免除の制札を与え、これが江戸時代にも引き継がれました。
ところが、江戸幕府の「延宝検地」でこの特権が否定されたことから、庄屋らが本要寺に集まり議論した結果、延宝6年(1678)、平田町大庄屋・岡村源兵衛と平山町年寄・大西与三右衛門が幕府に直訴することとなりました。
両人は江戸に上京したものの門前払いが続き、雪降る中を決死の覚悟で老中・酒井忠清の屋敷前に断食をして座り込みました。
追って本要寺の味噌樽の蓋として転用されていた秀吉の制札が発見され、「先年之通地子取ましき事」と記されていたのが証拠となって死罪を免れたばかりか、免税の特権をも維持することができました。
このことを教訓に、元禄7年(1694)、本要寺境内に秀吉の制札や重要文書を保存する「宝蔵」が造られ、宝永4年(1707)には両人の顕彰を兼ねて免税特権の根拠を伝える儒者・福田尚存撰文の「義民碑」(「東播三木町弁証碑」)も建てられました。
現在、「宝蔵」や内部の古文書は三木市の公有財産となっているほか、7月18日に古文書の虫干しを兼ねて本要寺で「夏の義民祭」が、大西与三右衛門の墓がある本長寺でも12月8日に「冬の義民祭」が執り行われています。
参考文献
『兵庫県美嚢郡誌』(美嚢郡教育会編 臨川書店、1985年)
義民碑と宝蔵の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民碑と宝蔵
場所
兵庫県三木市本町2丁目3番6号
備考
山陽自動車道「三木⼩野インターチェンジ」で降りて三木市街に入り車で10分、本要寺境内の最奥、三井住友銀行に隣接して宝蔵がある。義民碑は宝蔵の右後方の墓碑様のもの。駐車場あり。