天明志士紀念碑(中筋才蔵と縄騒動)

天明志士紀念碑
徳島藩の縄趣法に抗った義民を顕彰する碑

2023年6月3日義民の史跡

天明2年(1782)、淡路国(今の兵庫県)では縄供出や木綿の専売強化を巡って多くの農民が大庄屋の屋敷に押し掛け、負担軽減を強訴しました。徳島藩の本藩からも役人が出張して取調べがあり、新法は廃止されたものの、一揆の頭取として三原郡広田宮村才蔵、山添村(いずれも今の南あわじ市)清左衛門の両人が処刑されました。明治時代に自由民権運動の中でその事績が掘り起こされ、一揆ゆかりの地である大宮寺の裏手に「天明志士之碑」や「天明志士紀念碑」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の徳島藩では洲本城代を置き淡路一国を支配していましたが、折からの凶作で農村が疲弊する中、「縄趣法」として、全島の農民に縄を供出するよう命令を出しました。

島内に縄方役所が置かれ、太縄・中縄・細縄それぞれの規格に合わないものは容赦なく差し戻された上、「増米法」「木綿会所法」といった他の新法による専売制もますます強化されますが、これは明治時代の自由民権運動家・小室信介の『東洋民権百家伝』によれば、現地役人の坂東米蔵・高田富次郎と豪商の吉見平六が結託したものといいます。

天明2年(1782)、たまりかねた三原郡広田宮村はじめ12か村の農民たちは、旧暦5月3日夜から19日にかけて、それぞれ大庄屋の屋敷に大挙して押し掛け、新法による負担の軽減を要求しました。

これを「縄騒動」といいますが、事態を受けて徳島本藩からも役人が派遣されて取調べがあり、現地役人は処罰され、農民の要求どおりに新法は廃止され旧態に戻りました。

しかし、八幡宮の早鐘を鳴らして徒党強訴を煽った一揆の頭取として、淡路国三原郡広田宮村才蔵、山添村清左衛門の両人が翌天明3年(1783)2月23日に獄中で斬首され、その首は桑間村川原で獄門に懸けられました。

才蔵の首は力士・楓山が密かに奪い取り埋葬したといいますが、故郷のみならず広く淡路全島で義民供養が行われたことは各地に残る石造物を見ても明らかです。

洲本市の三木田地区にある「才蔵地蔵」は、才蔵を供養するため天明4年(1785)建立されたもので、江戸時代の淡路島の文人・渡辺月石の『堅磐草かきわぐさ』にも「其の恩義を顧みて潜かに戮力し法界の為と称し兼て才蔵菩提の意を含み一大仏石地蔵を三木田村官道の路傍に建立す。其れ党中発起して之を営み才蔵幽魂を吊慰する所なり云々」とあります。

「才蔵地蔵」については、才蔵の霊魂が稲につく害虫「才蔵虫」として祟りをなすので地蔵として祀り上げたところ、かえって豊作の御利益があったという伝説もあり、民俗学者・宮田登などが「人を神に祀る風習」の面から注目してきたところです。

同様に、淡路市の東浦地区の横山集落には才蔵の法名「法道覚阿信士」と清左衛門の法名「仙翁智言信士」を併記した供養塔が建立されており、その他島内でいくつかの供養塔が見つかっています。

また、南あわじ市八木地区の盆踊り「大久保踊」も、非業の死を遂げた才蔵の霊を慰めるため、佐尾寺住職の教雲上人が振付けを指導したといわれており、現在は兵庫県県無形民俗文化財に指定されています。

明治時代に入ると自由民権運動の高まりとともに「天明の志士」としてその事績が掘り起こされ、一揆ゆかりの地である大宮寺の裏手には、明治31年(1898)の天長節(天皇誕生日)を期して、自由民権運動の主導者として知られる板垣退助が撰文し、「明治の三筆」のひとり巌谷一六が揮毫した「天明志士之碑」が建てられました。

続いて明治40年(1907)にも最後の徳島藩主・蜂須賀茂韶もちあきの題字による「天明志士紀念碑」が建てられるなど、今なお顕彰が続いています。

参考文献

『洲本市史』(洲本市史編さん委員会編 洲本市、1974年)
『淡路島の民俗』(和歌森太郎編 吉川弘文館、1964年)
『東洋民権百家伝』(小室信介編 岩波書店、1957年)
『兵庫県史』第4巻(兵庫県編 兵庫県、1979年)
『堅磐草』(渡辺月石 名著出版、1971年)

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天明志士紀念碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

天明志士紀念碑

場所

兵庫県南あわじ市広田広田898番地

備考

神戸淡路鳴門自動車道「洲本インターチェンジ」から車で5分、大宮寺裏手の四国霊場を祀る丘に記念碑が並ぶ。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)