迎え地蔵尊(井上吉右衛門と郷中騒動)
明和6年(1769)、不作に見舞われた河内国(大阪府)丹南藩領では、多数の百姓が屯集して寄合を開くなど不穏となり、村役人の中にも年貢納入を拒否する者が現れました。この「郷中騒動」では多数の庄屋らが牢死したほか、北野田村庄屋・井上吉右衛門らが役儀追放などの処分を受けました。野田地区には釈放からほどなく亡くなった吉右衛門を供養するための「迎え地蔵尊」が残されています。
義民伝承の内容と背景
明和6年(1769)、麦や木綿の不作に見舞われた河内国丹南藩領22か村では、百姓多数が各地で寄合を開くようになり、2月10日には来迎寺境内に数千人が集まるまでになりました。
百姓らは丹南藩に拝借金や夫食米の下付などを要求するものの認められず、村役人の中にも年貢納入を拒否する者が現れました。
この一件は強訴に当たるとして江戸と大坂の双方で吟味が行われ、江戸に召喚された庄屋22人のうち11人が牢死しています。
安永元年(1772)11月21日、江戸表では4人を中追放、2人を役儀取放及び過料銭5貫文などとする判決が出て、丹南藩主である高木正弼(まさのり)も大番頭の出仕を停止されました。
丹南郡北野田村庄屋・井上吉右衛門は、幕府老中伺いの上、江戸町奉行・牧野大隅守より役儀追放及び過料の裁許を受けて庄屋を退きましたが、帰村した際には惣百姓出迎えの上、見舞いの品として酒・肴を贈られ、庄屋の跡目についても息子の徳左衛門を立てるよう懇望され、「無レ左く候ては乍レ憚村方納りの程無二覚束一」と言わしめるほど地元で慕われていました。
吉右衛門が釈放から3年後の安永4年(1775)5月23日に亡くなると、村では近郷10か村の僧侶を集めて葬儀を盛大に執り行うとともに、本人の法名「釈教安」及び妻の法名「釈貞順」を台座に記した石地蔵を建てて供養し、これが今でも「迎え地蔵尊」として野田共同墓地の中に残されています。
参考文献
『美原町史』第一巻 本文編(美原町史編纂委員会編 美原町、1999年)
『登美丘町史』(登美丘町史編纂委員会編 登美丘町、1954年)
『大阪府史』第6巻(近世編2)(大阪府史編集専門委員会編 大阪府、1987年)
迎え地蔵尊の場所(地図)と交通アクセス
名称
迎え地蔵尊
場所
大阪府堺市東区南野田地内
備考
南海高野線「北野田駅」に隣接する野田共同墓地内にあり、台座に夫妻の法名が刻まれている。専用駐車場はないのでマイカーは周辺の有料駐車場を利用のこと。