梅ぼし半十郎観音(松岡半十郎と市川騒動)
万延元年(1860)、福知山藩の専売制強化に憤る義賊・松岡半十郎が産物会所を襲い、直後に大規模な百姓一揆が勃発しました。この一揆は年貢増徴や専売制強化により藩財政の改革を進めていた責任者・市川儀右衛門の名から「市川騒動」と呼ばれます。最終的に市川は切腹し、藩も要求を認めるものの、一揆の波は周辺他藩にまで拡大しました。現地には半十郎を祀る「梅ぼし半十郎観音」や一揆頭取の顕彰碑などが建てられています。
義民伝承の内容と背景
財政難にあえぐ江戸時代末期の福知山藩では、家老の原井惣左衛門によって小身から取り立てられ、郡奉行にまで成り上がった市川儀右衛門が中心となり、年貢増徴や専売制強化、倹約と貯蓄の押付けによる打開を図ろうとしていました。
こうして庶民の不満が鬱積していた万延元年(1860)7月4日夜、藩の産物専売所として暴利を得ていた城下広小路の正直会所に何者かが押し入り、留守番の手代・大津屋常七と小使・川北屋喜兵衛を殺害し、奪った金品は道案内をした者に与えて逃走する事件が勃発します。
事件の犯人は福知山の侠客・松本屋銀兵衛の用心棒として居候していた2人の浪人、松岡半十郎と西郷新太郎であり、城下を離れるに当たってこの挙に出て、何鹿郡梅迫村(今の綾部市)まで逃れたところを捕縛されました。
うち新太郎は厳しい吟味の末8月に牢内で縊死し、残った半十郎は町中引廻しの上、12月20日に福知山城下の和久市三昧の仕置場で打首となりました。
死に臨んで半十郎は「三味線の糸より細きわが命引き廻されて撥(ばち)は目の前」と辞世を詠み、隠し持っていた1寸5分の守り本尊を飲み込むと「自分の墓に好物の梅干を供えれば病気を治す」と言い残したため、後に「梅ぼし半十郎観音」として祀られました。
当時の史料にも「遠近ゟ右半十郎墓所へ参詣人数多有之、何か信心いたし候ヘハ諸病共平癒之よし、梅干を持夥敷(おびただしき)参詣人也」と、梅干を持参した参詣人が殺到して流行り神化し、出張してきた役人が参詣人を追い払うようすが書かれています。
しかし、この事件は単なる前触れに過ぎず、直後の8月20日に藩政史上最大の「市川騒動」と呼ばれる一揆が勃発します。
天田郡平野村(今の福知山市)の広瀬河原に集まった百姓たちは、道中で他村の参加を募り、庄屋の屋敷や会所などを打ちこわしながら城下の広小路まで押し出しました。
その数実に5万人といわれ、対応に窮した藩では減税や専売制撤廃、役人の罷免などの13か条の要求を認めたため、22日に一揆勢は城下を引き上げていきました。
一揆の風聞は江戸の幕閣の耳にも入り、福知山藩主・朽木綱張は奏者番を罷免され、国元でも家老の原井惣左衛門と市川儀右衛門が責任を負い切腹して果てました。
ただし、『一揆大騒動記録』には「おくびよふもの(臆病者)故」なかなか切腹しない儀右衛門を親類が斬首し、切腹として届け出たとあります。
また、13か条の訴状を記したのは石場村庄屋の石坪万右衛門と庵我中村庄屋の塩見勘左衛門(ともに今の福知山市)とされ、地元に顕彰碑が建っています。
「市川騒動」の余波は他領にも及び、隣接する綾部藩領の天田郡大身村(今の福知山市)では11月13日に「大身騒動」が起こりました。
細野峠に集まった百姓らは、日頃から高額な酒を売り付け、酒造の時期に原料の米を買い占めたとして上大久保村(今の船井郡京丹波町)の酒屋・辻金右衛門の屋敷に押し入ったのを皮切りに、丹波亀山藩領の船井郡須知村(今の船井郡京丹波町)のほうまで出向いて商家を打ちこわして回りました。
最終的に2千人余りにも膨れ上がった一揆勢は園部陣屋近くまで押し出すものの、園部藩や亀山藩の逆襲に遭い瓦解しました。
捕縛された百姓は各藩や京都町奉行所に送られて詮議を受け、牢死した大身村茂助が「存命ニ候ハヽ細野峠ニおいて獄門」の判決を受けるなどしており、かつての京街道沿いの細野峠には「大身騒動晒場跡」が残されています。
参考文献
『三和町史』上巻 通史編(三和町史編さん委員会編 三和町、1995年)
『三丹百姓一揆物語』第2集(加藤宗一 加藤宗一、1951年)
梅ぼし半十郎観音の場所(地図)と交通アクセス
名称
梅ぼし半十郎観音
場所
京都府福知山市和久市町地内
備考
舞鶴若狭自動車道「福知山インターチェンジ」から車で15分、「厄除神社前」バス停から100メートル北に入ったアパートが並ぶ一角に、「梅ぼし半十郎観音 妙徳伴大明神」の看板が掲げられた瓦屋根のお堂がある。