伏見義民小林勘次碑(小林勘次と伏見町越訴)
元和4年(1618)、淀川の船銭が値上げされ、伏見の商人や旅人が難儀するのを見た山城国伏見町(今の京都府京都市)の薪炭商・小林勘次は、江戸に出向いて幕府に直訴し、船銭を従来通りとする朱印状を獲得しますが、帰京の途中で暗殺されてしまいました。江戸時代から明治時代にかけて、小林勘次を義民として讃える人々によって、いくつかの墓碑や石碑が造立されました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代初期の元和年間、京都・大坂間では「過書船」と呼ばれる川船が盛んに行き来し、貨物や旅客の輸送を担っていました。
角倉与一・木村宗右衛門の両人が過書奉行に任じられると、淀川の通行料にあたる船銭が値上げされたため、伏見の町人は何度も減額を訴えましたが、実現することはありませんでした。
もとは丹波国桑田郡大野村(今の亀岡市)出身で明智光秀の家臣であり、主家滅亡後に武士を捨てて伏見に移り住んだともいわれる薪炭商の小林勘次は、伏見の商人や旅人が難儀をしているのを見て義憤にかられ、元和3年(1615)8月、単身江戸に出て、翌年の元和4年(1616)正月27日、このことを幕府に直訴しました。
正規の船賃を厳守するようにとの朱印状を勝ち取った小林勘次は東海道を西上して帰国の途につきますが、元和4年(1618)4月26日、途中の鞠子宿(今の静岡県静岡市)において突然に毒殺されてしまいます。これは朱印状の到着を恐れた奉行が従者を唆し、朱印状を奪おうとした企てであったといいます。
しかし、あらかじめ暗殺を予見していた小林勘次は、朱印状を干鮭の腹に隠して使いの人間に持たせていたため、自身が亡くなっても朱印状という証拠書類は残り、船銭も元に戻されたということです。
宝暦4年(1754)、伏見惣木屋中が施主となり、玄中寺に「涼岳院念誉善正居士」と刻む小林勘次の墓石が建てられました。明治23年(1890)にも伏見の薪炭商共進組合が新政府の役人で能書家でもあった西尾為忠に撰文を依頼し、玄忠寺境内に新たに「伏見義民小林勘次碑」を建てて顕彰しています。
参考文献
『新撰京都名所図会』巻5(竹村俊則 白川書院、1963年)
『京都の歴史』6(伝統の定着)(京都市編 学芸書林、1973年)
伏見義民小林勘次碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
伏見義民小林勘次碑
場所
京都府京都市伏見区下板橋町575番地
備考
名神高速道路「京都南インターチェンジ」から車で10分、玄忠寺の本堂前に位置する。墓は境内の地蔵堂脇にある。