平吉霊神(安住寺村平吉と村方騒動)

平吉霊神 義民の史跡
直訴後に霊神として祀られた百姓の碑
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江戸時代中期、淡路国三原郡安住寺村(今の兵庫県南あわじ市)の平吉は、年貢米の取立てを巡る庄屋の不正を藩に直訴し、百姓の負担は軽くなったものの、自身は入牢の末に牢死したとも、死罪になったともいわれます。平吉の没後に祟りがあったことから村では霊神として祀ると、かえって村の守護神になったということです。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代中期の明和(1764~1772)又は安永(1772~1781)の頃、徳島藩領の淡路国三原郡安住寺村では、庄屋が村人たちの年貢米を多く取り立てて私欲を図る振舞いがあったといいます。

同村の平吉はこうした不正を見破り、五人組を動かして庄屋に嘆願し、一時は不正をやめさせますが、庄屋はかえって五人組の者を買収し、なお不正を働こうとしました。

そこで平吉は組頭庄屋の加地氏に訴えたものの、証拠を挙げることができなかったことから、藩庁に直訴して捕らえられてしまいました。

この平吉の直訴により百姓の負担は軽くなりましたが、自身は庄屋と争ったことで死罪を仰せ付けられ、長年にわたって牢獄にあった後、実際に死罪に行われたとも、牢死したともいわれます。

寛政5年(1793)7月23日に平吉が亡くなると、五人組の家が断絶したり、村人の多くが病にかかったりしたため、易者や祈祷者に見立ててもらったところ、裏切りに遭った平吉の妄念によるものと判明しました。そこで平吉を「一心密行霊神」とし、村内にある安住寺に宝篋印塔を建てるなどして祀ると祟りはやみ、かえって村の守護神になったということです。

昭和7年(1932)には、組有運動場があった荒神山という場所に、新たに「一心尽身霊神」と刻んだ碑が建てられました。

参考文献

『淡路島の民俗』(和歌森太郎編 吉川弘文館、1964年)
『緑町風土記』(緑町合併20周年記念誌編纂委員会編 緑町教育委員会、1977年)
『三原郡史』(三原郡史編纂委員会編 三原郡町村会事務所、1979年)

平吉霊神の場所(地図)と交通アクセス

名称

平吉霊神

場所

兵庫県南あわじ市倭文安住寺

備考

「平吉霊神」は、安住寺集落内を走る兵庫県道470号倭文五色線沿い、安住寺から直線距離で西に300メートルほどの丘の上にあり、「一心尽身霊神」と草書体で刻まれた石碑が残っています。マイカーの場合、神戸淡路鳴門自動車道「洲本インターチェンジ」から15分、公共交通機関を用いる場合は、「洲本バスセンター」から淡路交通バス(鳥飼線)乗車25分、「供養石」バス停下車、付近の交差点から県道470号線に入って、南西に徒歩10分ほどです。

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