久末義民地蔵(久末義民の門訴事件)
元禄6年(1693)、武蔵国橘樹郡久末村(今の神奈川県川崎市)が領主・佐橋内蔵之助の屋敷に年貢減免の門訴をしたところ、百姓19人が殺害される事件が起こりました。後に年貢は引き下げられましたが、村では犠牲者を供養するため数次にわたって地蔵尊を建立し、今に「久末義民地蔵」として伝えられています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の武蔵国橘樹郡久末村は、江戸で奢侈に耽る旗本・佐橋内蔵之助佳純の知行所でしたが、元禄6年(1693)の検地によって石高が無理やり100石ほど増やされ、年貢の負担も過酷を極めるようになりました。
このため、百姓たちは蓮花寺の祐長上人に相談するものの術なく、ついに蓮華寺が訴状を代筆の上、江戸四谷にある佐橋佳純の屋敷で年貢減免を求めて門訴に及ぶこととなりました。
最初は村から3人が選ばれて江戸に赴くものの村に戻らず行方不明となり、次いで6人が送られますが同様に帰らず、最後の鈴木平左衛門をはじめとする20人は全員が捕らえられて牢に入れられ、うち19人までが毒殺され、森五兵衛ただ1人だけが生きて逃げ延びたため、佐橋によって百姓らが殺害されていた事実が明るみに出ました。
その後村では年貢が引き下げられますが、門訴事件から時を経た延享3年(1746)、久末村の名主らが犠牲者の霊を供養するため村境に地蔵尊を建立、次いで明和元年(1764)には蓮華寺境内に宝篋印塔を建立、さらに寛政元年(1789)や寛政9年(1797)にも地蔵尊が建立され、いつしか「義民地蔵」の呼び名が生まれました。
昭和58年(1983)、地元講中の浄財により、川崎市高津区の妙法寺境内に安置堂が建立され、もとは中原街道沿いにあった義民地蔵2体が遷座し、改めて落慶法要が執り行われたほか、現在でも7月の地蔵盆に追善供養が行われています。
参考文献
『神奈川県の民話と伝説』下巻(萩坂昇 有峰書店新社、1993年)
『川崎市史』通史編2 近世(川崎市編 川崎市、1994年)
久末義民地蔵の場所(地図)と交通アクセス
名称
久末義民地蔵
場所
神奈川県川崎市高津区久末375
備考
第三京浜道路「都筑インターチェンジ」から車で10分。妙法寺本堂左側の安置堂のなかに2体(立像と半跏像)が納められています。