岩野平左衛門の墓(岩野平左衛門の義民伝承)
延宝8年(1680)、上総国天羽郡百首村(今の千葉県富津市)名主の岩野平左衛門は、重税を賦課する旗本・秋元隼人正に諌言して処刑されたと伝わります。その後、祟りにより火災が頻発したことから、平左衛門は火防の神「岩平大権現」として祀られました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期、上総国天羽郡百首村を知行する旗本の秋元隼人正時朝は重税を取り立て、領内百姓の困窮を招きました。
百首村の名主・岩野平左衛門はこれをたびたび諌めたところ、隼人正の怒りに触れて、延宝8年(1680)10月30日、47歳にして処刑されてしまいました。
幕末の嘉永2年(1849)に松翁院知事が記した『鎮守岩平大権現縁起』によれば、平左衛門の父は里見家浪士の岩野三郎右衛門であり、その妻が地蔵菩薩から宝玉を賜る霊夢を見て懐妊したのが平左衛門だったといいます。平左衛門は寛文年間(1661~1673)に代官職に就いていたとも書かれており、村人の信望があったことがわかります。
平左衛門亡き後、各所に火災が起きたことから、村人たちは平左衛門の祟りだろうと噂しあい、火防の神「岩平大権現」として平左衛門を祀り、百年忌には「寿荘院殿厳誉利善栄山大居士」の戒名を追贈しました。
岩野平左衛門の三年忌にあたる天和2年(1682)10月からは、村内安全と義民の供養を兼ねた十夜法要が始まったともいいます。
江戸幕末の慶応3年(1868)の記録によれば、「岩平大権現」には桁行9尺の本殿と桁行1間半の拝殿があったとしています。
当時の社殿はありませんが、現在も「十夜寺」と通称される松翁院の境内には、「岩野平左衛門の墓」と伝わる地蔵菩薩の石仏が、「南無阿弥陀仏」の六字名号を楷書・ハングル・梵字・篆書の各書体で刻んだ寛文10年(1670)建立の珍しい供養塔の傍らに残されています。
参考文献
『富津市史』史料集2(富津市史編さん委員会 富津市、1980年)
岩野平左衛門の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
岩野平左衛門の墓
場所
千葉県富津市竹岡349番地1
備考
館山自動車道「富津竹岡インターチェンジ」から車で3分。「岩野平左衛門の墓」は、松翁院(十夜寺)の正面から境内に入り、本堂へと向かう参道途中の墓地内にあります。手前に富津市教育委員会による案内板が掲げられた地蔵菩薩立像がそれです。