大神宮義民七人様の供養碑(大神宮義民七人様と大神宮村越訴)
天和2年(1682)、安房国安房郡大神宮村(今の千葉県館山市)川坂の名主・小柴三郎左衛門らが旗本・河野三左衛門の苛政を幕府老中に越訴するものの、敗訴して身柄を河野家に引き渡され、あわせて7人が処刑されました。文化11年(1814)、百三十三回忌を機にこれら「大神宮義民七人様」の供養碑が建てられ、今も千祥寺境内に残されています。
義民伝承の内容と背景
現在の千葉県館山市の区域にあたる安房国安房郡大神宮村の一部は、寛文12年(1672)から旗本の河野三左衛門が地頭として支配するところとなりました。
しかし、年貢が引き上げられた上、これまで山役(利用税)を支払えば薪取りなどができた村の山から農民を締め出して木材を独占し、多くの農民が生活に支障をきたすこととなりました。
加えて、延宝7年(1679)から3年連続で凶作に見舞われたにもかかわらず、理不尽な年貢の取立てが行われ、ついに年貢完済のために借金までするようになってしまいました。
天和元年(1681)の暮れから翌年にかけて、村人たちは意を決して河野家の江戸屋敷に直接嘆願をしたものの、国許に追い返されたばかりか、家財道具を没収されてしまったため、上京した1人は江戸で行方不明になる有り様でした。
ついに天和2年(1682)3月、村人たちは老中に越訴し、いったんは評定が行われたものの、領主に脅された組頭の偽証によって敗訴となりました。
訴人である村人たちは河野家に引き渡され、その年の11月に7人が処刑され、家族も追放、家財は没収となりました。
この「大神宮義民七人様」の俗名は、川坂の名主の小柴三郎左衛門以下、七左衛門・伝三郎・久助・平兵衛・六左衛門・市郎兵衛であると伝えられ、旧大神宮村の千祥寺や遍智院(小塚大師)に残る過去帳や位牌、墓石などから実在が明らかとなっています。
しかし、その後も河野家の支配は続いたため、表立って大々的な供養はできなかったらしく、大神宮村が白河藩領となった後の文化11年(1814)、百三十三回忌を機会に供養塔が建てられました。
この供養塔は大正11年(1922)になって安房神社近くの千祥寺から発見され、以後「大神宮義民七人様」として地元で顕彰活動が行われるようになりました。
参考文献
『大神宮義民七人様 三百三十回忌法要記念誌』(大神宮義民七人様三百三十回忌実行委員会 大神宮義民七人様三百三十回忌実行委員会、2012年)
大神宮義民七人様の供養碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
大神宮義民七人様の供養碑
場所
千葉県館山市大神宮704番地の1
備考
富津館山道路「富津インターチェンジ」から車で30分。安房神社鳥居前に掲げられた「市指定史跡 大神宮義民七人様の供養碑」の標識に従って道路を進むと、さらに「大神宮義民七人様供養碑」の石柱がある。石柱を目印にコンクリート舗装の坂を上った千祥寺墓地内に碑が建てられている。