杢右衛門の碑(最首杢右衛門の門訴)
寛延3年(1750)、上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)組頭の最首杢右衛門は、御用金の用捨願いのため旗本・阿部正甫の江戸屋敷で門訴して捕らえられ、寺院の助命嘆願もむなしく屋敷内で斬首されました。地元には杢右衛門を供養するための墓碑などがいくつか建てられています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期、上総国夷隅郡深堀村は旗本・阿部正甫(まさはる)の知行所でしたが、駿府在番の費用が嵩んだため、深堀村・嘉谷村・押日村・浜村・小池村の5か村に400両の御用金を賦課しました。
村々では田方不作を理由として、半分の200両について用捨願いを出したところ、かえって報復として、すべての田で稲の作柄を調べる総検見を行うまでの間、鎌止めとして稲の刈取りを禁止する旨を申し渡されてしまいました。
百姓側は従来どおりの検見を願い出たものの、代官の弥三左衛門は取り合わなかったため、寛延3年(1750)、深堀村組頭の杢右衛門が他の百姓とともに江戸に赴き、阿部正甫の江戸屋敷で門訴を行いました。
杢右衛門は捕らえられて死罪に決まったことから、他領の真福寺までもが助命嘆願を行いますが、その甲斐もなく、同年12月23日に江戸屋敷内で斬首されました。
この一件については、深堀村の滝口神社の僧侶・啓賛が刑場に晒されていた杢右衛門の首を供養のため持ち去ったものの、役人に追われて入水したとの伝説が残されており、戦後の土地改良事業で江戸時代の髑髏が発掘された用水路脇に「最首杢右衛門之首塚」の碑が建てられています。
また、門訴事件は将軍・徳川家重の耳に達し、老中評議により阿部正甫は降格され、総検見も中止されたといわれますが、『寛政重修諸家譜』には部下の松平親房の素行不良を報告しなかったことを理由に「其職を奪て小普請に貶され、閉門せしめらる」とあるものの、事件については触れられていません。
その後深堀村はじめ5か村が共同で施主となって「勝光院西岳経雲居士」の戒名などを刻んだ杢右衛門の供養碑を菩提寺の坂水寺境内に建立していますが、この供養碑は境内墓地の土留め石として埋まっていたものが戦後偶然発見され、「杢右衛門の碑」として大原町有形文化財に指定されています。
同じく最首家墓地からも「最首杢右衛門者匹夫、而為二百世神一、一言而救二万民命一、生命極二四十一一、剣上投二五尺身一、臨レ危不レ変、方是丈夫心也」と刻んだ墓碑が土中から発見されており、杢右衛門は身分は低いが万民を救った義挙で百代の後には神として崇められるだろうという意味とみられます。
参考文献
『近世史研究遺文』(児玉幸多先生論集刊行委員会 吉川弘文館、2017年)
杢右衛門の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
杢右衛門の碑
場所
千葉県いすみ市新田3281
備考
首都圏中央連絡自動車道「茂原長南インターチェンジ」から車で40分。いすみ鉄道「西大原駅」南側の「坂水寺」境内、参道石段を登った左手の鐘楼脇に「いすみ市指定史跡 杢右衛門の碑 一基」と標識があります。