関兵霊神社(遠藤兵内と伝馬騒動)
幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことを端緒として、明和元年(1764)から翌年にかけて、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人が参加する大一揆「伝馬騒動」が勃発しました。幕府は百姓側の要求を全面的に受け入れ事態を収拾しましたが、後日、武蔵国児玉郡関村(今の埼玉県児玉郡美里町)の名主・遠藤兵内を頭取として獄門に処しました。人々は遠藤兵内を「義民」と讃え、兵内の供養塔を建てたり、「兵内踊り」を作ったりして菩提を弔いました。
義民伝承の内容と背景
江戸幕府は日本橋を起点に五街道を整備し、途中に宿場を設けて人馬の継立ができるようにしましたが、不足の場合は宿場周辺の農村から人馬を徴発して補充する「助郷」の制度をあわせて導入していました。
明和元年(1764)には徳川家治の将軍襲封を慶賀する朝鮮通信使が来日したほか、翌年に東照宮百五十回忌を控えていたこともあって、幕府は中山道沿いを中心に国役金や増助郷役の賦課などの増徴政策をとり、農民の負担が一気に高まりました。
同年閏12月、増助郷役などに反対して蜂起を促す「天狗触れ」と呼ばれる廻状が村々に回され、身馴川(今の小山川)の十条河原に本庄宿の助郷村である児玉郡ほかの農民数千人が集結、本庄宿で打ちこわしが起こったのを皮切りに、大勢の農民が江戸へと強訴に向かう流れが生まれます。
こうして翌年正月にかけてまたたく間に信濃・上野・武蔵・下野4か国に広がり、「島原以来の大騒動」となる総勢200か村以上、20万人の参加という「伝馬騒動」が勃発しました。
幕府は関東郡代・伊奈半左衛門忠宥(ただおき)に鎮圧を命じたものの手に負えず、農民の要求を全面的に受け入れることで収束させる道をとりますが、一揆の余韻はなおも続き、特に正月早々には村役人や商人宅などあわせて20軒ほどが打ちこわしの被害に遭っています。
一揆後、幕府は責任者の追及を厳しくし、武蔵国児玉郡関村の名主・遠藤兵内が一揆の頭取として明和3年(1767)に処刑され、志戸川べりに首が晒されたほか、4か国の農民360人余りが追放などの処罰を受けました。
その後、地元では遠藤兵内を「兵内様」として讃え、供養塔を建てて弔ったほか、幕末の文久3年(1863)には漢学者の名主・中沢喜太夫が白川神祇伯家から「関兵霊神」の霊神号を得て若宮八幡宮(今の児玉神社)境内末社に人神として祀り、あわせて「兵内踊り」や「関兵霊神くどき」を創作しています。
現在でも関観音堂の境内に「義民遠藤兵内の墓」とされる宝筐印塔が残り、美里町の文化財に指定されているほか、改修の際にその胎内から木製小宝篋印塔や寄進札などの遺物も発見されています。
「兵内踊り」や「関兵霊神くどき」も地元に伝わり、毎年2月13日の命日には社前で「兵内霊神祭」が執り行われるなどして顕彰されています。
参考文献
『新編埼玉県史』通史編4 近世2(埼玉県、1989年)
『川越市史』第3巻 近世編(川越市庶務課市史編纂室 川越市、1983年)
関兵霊神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
関兵霊神社
場所
埼玉県児玉郡美里町関地内
備考
関越自動車道「本庄児玉インターチェンジ」から車で10分。埼玉県道75号熊谷児玉線沿い「児玉神社」の境内後方に鎮座しています。