日向義民地蔵(小沼庄左衛門と延宝の直訴)
延宝4年(1676)、上野国山田郡台之郷村(今の群馬県太田市)名主・小沼庄左衛門ら18人は、「目こぼれ」と称して館林藩の役人が年貢を横領したことを幕府に直訴しました。その後、18人の身柄は館林藩に引き渡され、全員が磔刑に処せられたことから、元禄17年(1704)に「日向義民地蔵」が祀られました。
義民伝承の内容と背景
寛文元年(1661)に上野国館林藩主となった徳川綱吉は、その後延宝年間にかけて領内各地で検地を行い、年貢の増徴に努めていました。
そこに延宝3年(1675)、藩の役人が横領を企て、1俵につき3斗5升のはずの年貢を「目こぼれ」と称して1斗ほど余計に徴収する事件が起こります。
上野国山田郡台之郷村の小沼庄左衛門・森尻右馬允・栗原四郎兵衛、石原村(今の群馬県太田市)の栗原三左衛門、富田村(今の栃木県足利市)の小沼久四郎をはじめとする名主18人は、台之郷村の安楽寺で血判連署した訴状をしたため、まずは館林城に赴いて「目こぼれ」分の免除を嘆願するものの、聞き届けられませんでした。
このため、やむなく百姓総代として小沼庄左衛門ら18人は江戸に上って幕府に直訴を行い、結果として訴えは聞き届けられますが、捕縛されてその身柄を館林藩に引き渡され、延宝4年(1676)2月15日、邑楽郡日向村(今の館林市)の刑場において18人全員が磔によって処刑されました。
その後元禄17年(1704)になって、刑場跡に小沼庄左衛門ら18人を供養する地蔵が建てられ、現在も「日向義民地蔵」として群馬県館林市の指定史跡になっています。この地蔵の台座には、邑楽郡日向村ほか建立に協力した各郡の村々の名が刻まれています。
また、庄左衛門ら18人が密議を凝らし、願書をしたためた安楽寺は「願書寺」と呼ばれ、18人の処刑とともに闕所となりましたが、後に旧地の東隣に再興されて現在の「岩松寺」となっています。
参考文献
『群馬県史』通史編4 近世1 政治(群馬県史編さん委員会 群馬県、1990年)
『山田郡誌』(山田郡教育会 山田郡教育会、1939年)
日向義民地蔵の場所(地図)と交通アクセス
名称
日向義民地蔵
場所
群馬県館林市日向町甲1561-1
備考
東北自動車道「館林インターチェンジ」から車で20分。国道122号東国歴史文化街道の日向交差点から50メートル西、「右足利 左太田小泉 道」の安永6年道標がある分岐路にお堂がある。