義民斎藤彦内墓所(斎藤彦内と寛延信達一揆)
寛延2年(1749)、冷害による凶作に見舞われた桑折代官所支配68か村の百姓は、年貢減免を求めて代官所を取り囲む強訴に及びました。この「寛延信達一揆」の後、年貢は引き下げられましたが、陸奥国伊達郡長倉村(今の福島県伊達市)の斎藤彦内をはじめ、伊達崎(だんざき)村(今の伊達郡桑折町)蓬田半左衛門、鎌田村(今の福島市)猪狩源七の3人が首謀者として処刑されました。彦内を葬った福源寺には墓や供養碑が建てられたほか、明治時代には半井桃水が小説『天狗廻状』に記すなどして顕彰が行われています。
義民伝承の内容と背景
寛延2年(1749)、陸奥国信達地方(旧信夫郡・伊達郡)は冷害に見舞われますが、他領では年貢減免が行われたことから、幕府領の桑折代官支配68か村でも年貢減免を訴願しました。これに対して、新任代官の神山三郎左衛門は再三の願い出を拒み、逆に年貢の2分5厘引上げという厳しい態度で臨みました。
その後、信夫郡宮代村(今の福島市)山王社へ集合するよう呼び掛ける差出人不明の「わらだ廻状」が村々を廻り、この山王社の密議において、惣代に長倉村組頭の斎藤彦内、伊達崎村の蓬田半左衛門、鎌田村の猪狩源七が選出されました。まずは代官所に訴願し、要求が認められなければ一揆という方針も決定し、一味神水して結束を図ったといいます。
果たして代官は百姓の要求を容れず、ついに12月11日、百姓16,800人が桑折代官所を取り囲む「寛延信達一揆」が勃発しました。驚いた代官は密かに近隣の福島藩・仙台藩・白石藩に加勢を求めるとともに、12日夜には手代の堤三右衛門を使者に立たせて説得に及んだため、ようやく騒動は収まり、年貢減免の目的もひとまず達成されました。
しかし、代官は援兵の力を背景に領内の組頭・百姓代を残らず取り調べようとしたため、見かねた斎藤彦内が代官所に自首しました。彦内の吟味は翌年に始まるものの、仲間の名前を白状しないことから天秤責めや水責めといった過酷な拷問が行われ、さらに彦内を救おうと半左衛門・源七らも同様に自首しました。
寛延3年(1750)7月17日、斎藤彦内は村境の産ヶ沢で獄門に懸けられ、源七や半左衛門は死罪となりました。彦内の遺体は菩提寺の福源寺に埋葬され、「百ヶ日供養の碑」も建てられましたが、その裏面に彫られた一揆の顛末は代官の命令で削られたと伝えられています。
明治以降、自由民権運動とともに一揆犠牲者を「寛延三義民」と顕彰する動きが盛んになり、半井桃水が小説『天狗廻状』を朝日新聞に連載したほか、近年に至るまで産ヶ沢ほかに顕彰碑が建てられるなどしています。
参考文献
『福島県史』第3巻 通史編第3 近世2(福島県 福島県、1970年)
『伊達町史』第1巻(伊達町史編纂委員会 伊達町史出版委員会、2001年)
義民斎藤彦内墓所の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民斎藤彦内墓所
場所
福島県伊達市下志和田31
備考
東北中央自動車道「伊達桑折インターチェンジ」から車で5分、福島県伊達市の福源寺境内墓地内にあります。「斎藤彦内墓所」は本堂の真裏に位置しており、伊達市教育委員会が建てた解説板や墓碑の覆屋があります。また、福源寺への入口にあたる国道4号の交差点手前には「義民斎藤彦内の墓 Righteous man Hikonai Saito Tomb 0.5km」の案内標識が掲示されています。