菅野八郎自刻之碑(菅野八郎と信達世直し一揆)
慶応2年(1866)、幕府が生糸・蚕種の売買に改印制を導入して冥加金を徴収しようとしたことに反対し、陸奥国信夫・伊達両郡の百姓が蜂起し、役人と結託した商家の打ちこわしを行いました。この「信達世直し一揆」は陸奥国伊達郡金原田村(今の福島県伊達市)の菅野八郎が指導したとする風聞が立ち、「世直し八老大明神」と讃えられました。梁川代官所に自首した菅野八郎は入牢するものの明治維新とともに赦免されており、地元には彼の決意を端的に示した「菅野八郎自刻之碑」が残されています。
義民伝承の内容と背景
江戸幕末の慶応2年(1866)、幕府は生糸・蚕種の売買に改印制を導入します。
これは生糸などの産物の粗製乱造を防ぐ名目で改印のないものの輸出を禁止する趣旨ですが、折からの物価高騰とあいまって、改印制によって手数料収入を得ることになる仲買商人らに対する農民の反発が高まりました。
同年5月、この状況を「乍恐天下の御為に不相成」として一揆を促す「わらざ廻文」と称する文書が陸奥国信夫・伊達両郡の村々を駆け巡り、ついに6月15日夜、徴税請負に携わった商人らを「私欲」と断じて、まず岡村馬治、同村阿部文右衛門と長倉村伴六の屋敷が打ちこわしの対象となりました。
同月20日まで続いたこの打ちこわしには信達地方の数万人が参加したといわれ、桑折代官所が包囲された上に福島城下にまでその勢いが及び、商人のほか名主や目明の屋敷など多数が被害に遭いました。
桑折代官所では新税撤回と米価相場の公定を約束する張札をしたため騒動はようやく沈静化し、代官の川上猪太郎は責任を取り切腹、後任の黒田節兵衛が新税廃止を上申して、慶応3年(1867)5月に生糸・蚕種の冥加金は「永御免」として廃止が決まりました。
「信達騒動」「信達世直し一揆」などと呼ばれるこの一揆の首謀者については、程なく菅野八郎であるとする風聞が立ち、江戸や上方のかわら版でも「世直し八老大明神」と讃えられました。
菅野八郎は陸奥国伊達郡金原田村の名主の子に生まれ、嘉永7年(1854)、「予ハ是汝が信する東照大神君(徳川家康)の使なり」と自称する「白髪の老翁」が夢枕に立ったとして、異国船に対する海防策を幕府に提言すべく、江戸に上って老中・阿部正弘への駕籠訴を行っています。
また、安政2年(1855)には、水戸藩士である義弟・太宰清右衛門に海防に関する献策書『秘書後之鑑』を送り、水戸藩に仕官して目的を果たそうとしますが、これが証拠となって「安政の大獄」では吉田松陰らと同様に取調べを受け、八丈島に遠島となりました。
数年を経て赦免された菅野八郎は故郷に帰り、安政4年(1857)3月に自宅近くの吾妻山に「八老魂留此而祈直」(八老、魂を此に留めて直きを祈る)と自刻した石碑を建てて決意を示すとともに、夜盗や博徒から農村を自衛する「誠信講」を組織し、有志とともに剣術稽古に励んでいます。
ところが、伊達郡柱田村(今の伊達市)で剣術道場を催し門弟を多く抱えていた道丸が捕縛され、その自白から「誠信講」を組織していた菅野八郎が頭取として浮かび上がり、桑折代官所の手配を受けました。
危機を感じた菅野八郎は、自宅を管轄する梁川代官所に「諸方へ名を知られ候私に御座候へば、頭取の名を附し罪科に陥んと謀り候義に相違無之候」として、桑折の博徒らの流言で有名人の自分が一揆の頭取に仕立て上げられたと訴状を出し、そのまま梁川代官所に身柄を拘束されました。
菅野八郎は時代が大きく移り変わろうとしている中で「朝廷御仁政」に期待し、商人と結託した代官の悪政を告発し、自らは「無実之罪」で入牢中と主張する嘆願書を奥羽征討の新政府軍に提出し、最終的には赦免を受けています。
参考文献
『世直し一揆の研究』(庄司吉之助 校倉書房、1970年)
『福島県史』第3巻 通史編第3 近世2(福島県 福島県、1970年)
菅野八郎自刻之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
菅野八郎自刻之碑
場所
伊達市保原町金原田字長沢107番地
備考
東北中央自動車道「伊達中央インターチェンジ」から車で10分。「旧蹟菅野八郎の生家跡」から南へ300メートルほど坂道を登った先にあり、旧保原町教育委員会が案内板を設置しています。