大山騒動義民供養塔(加賀屋弥左衛門と大山騒動)

大山騒動義民供養塔
庄内藩支配に反対した義民たちの供養塔

2023年5月28日義民の史跡

弘化元年(1844)、出羽国大山地方(今の山形県)を庄内藩預地とする幕命が下り、増税を恐れた幕府領73か村の百姓数千人が一揆を起こしました。この「大山騒動」では造り酒屋の加賀屋弥左衛門らが獄門となったほか、幕府領の庄内藩への引渡しも実行されました。もっとも、弥左衛門ら重罪人5人は既に江戸で牢死していたといわれ、明治時代に地元有志が供養塔を建立しています。

義民伝承の内容と背景

酒所で知られる出羽国田川郡大山村(今の山形県鶴岡市)一帯は、天保13年(1842)から幕府領として尾花沢代官・大貫治右衛門が支配していましたが、わずか2年後の天保15年(1844)2月9日に大山を庄内藩預りとする幕命が下り、4月28日の引渡しと決まりました。これを聞いた大山村庄屋で造り酒屋の鈴木庄兵衛はじめ大山郷八ヵ村組の村役人らは、かつて庄内藩支配の時代に重税や藩士の横柄さに苦しんだことを理由に、代官支配の継続を嘆願することにしました。

この年の2月から4月にかけて、「左衛門尉様(庄内藩主・酒井忠発)御領に立戻候様相成候ては、とても安穏に百姓永続無覚束おぼつかなく」として、代官所への嘆願をはじめ、幕府勘定奉行・戸川播磨守や老中・土井大炊頭への駕籠訴が行われますが、幕府からは何の沙汰もないままに引渡しの期限が迫ってきました。

ついに4月11日になると、大山村の造り酒屋・加賀屋弥左衛門が起草し、同村の修験・成就院永順が書写したとされる「無名の廻文」が村々に回付され、総百姓は大山に参集するようにとの一揆の呼びかけがなされました。4月26日には田川郡・飽海郡・由利郡内の幕府領73か村の数千人に及ぶ百姓たちが大山村に集まり、鶴ヶ岡城下から大山村に至る街道筋の橋を撤去するなど引渡し阻止の構えを見せたため、庄内藩でも足軽100人を出す事態となります。

これを「大山騒動」といいますが、一揆鎮圧は困難と悟った庄内藩の御預地勘定奉行・林元右衛門が幕府大山陣屋の手附・松山粂太郎と会談し、4月28日の引継ぎをひとまず延期することに決定し、ようやく一揆勢は解散します。

ところが7月になると、幕府の関東取締出役が大山に出張して関係者を捕縛、越後国の塩野町代官所(今の新潟県村上市)で吟味が行われ、うち鈴木庄兵衛・加賀屋弥左衛門・田中三郎治・九兵衛・喜兵衛の5名は重罪人のため江戸に送られました。一方で幕府から庄内藩への引渡しは予定より遅れて11月に行われ、結果としてこの一揆は目的を果たせぬままに終わりました。

一揆の関係者に対して判決が申し渡されたのは弘化3年(1846)のことですが、加賀屋弥左衛門と田中三郎治が獄門、鈴木庄兵衛と喜兵衛が遠島となったのをはじめ、3,500名あまりが処分されています。

江戸送りの5名は刑の執行を待たずに相次いで牢死したといわれており、明治時代に地元有志が中心となってこの5名の戒名入りの供養塔を金注連庵かなしめあん(今の銅片町集会所)に建立し、観音講を開いてその菩提を弔いました。

参考文献

『庄内御料百姓一揆 大山騒動史 -余目郷名主の記録より-』(佐藤幸夫 大山騒動史刊行会、1992年)
『鶴岡市史』上巻(鶴岡市 鶴岡市、1962年)
『山形県史』第3巻 近世編 下(山形県 山形県、1987年)

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大山騒動義民供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

大山騒動義民供養塔

場所

山形県鶴岡市大山2-31-40

備考

日本海東北自動車道「鶴岡西インターチェンジ」から車で10分。大山川沿いの金注連庵跡、現在の「銅片町集会所」敷地内にあります。入口にいくつか並んでいる石塔のうち右側にあるもので、手前に解説板が掲出されています。

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)