貞享元年(1684)、旗本・谷家が支配する丹波国十倉領(今の京都府綾部市)の江戸奉公人144人は、重税で困窮しているとして領主に直訴するとともに、その代表が幕府評定所にも越訴しました。頭取は志賀甚兵衛と伝えられ、7人が死罪、7人が国追放、130人が追放となりましたが、後に村中により甚兵衛の大きな位牌がつくられ、菩提寺の長松寺に納められました。
義民伝承の内容と背景
これら江戸奉公人たちは家老・西村源之丞にしばしば窮状を訴えたものの採り上げてもらえなかったため、貞享元年(1684)、144人の連判をもって領主に直訴するとともに、うち代表の14人が幕府評定所にも越訴しました。
訴状によれば、年貢未進を用捨すること、年貢率を永代にわたって引き下げること、そして、借銀の利息を厳しくを取り立てて百姓を追放したり田地を取り上げたりする代官・道家源五兵衛の非法をなくすことなどを求めています。
この事件は頭取の名前を取って「志賀甚兵衛強訴」、あるいは元号から「貞享の越訴」と呼ばれていますが、幕府は「未進多無法の類」として厳しい態度で臨み、同年8月21日に十倉村多兵衛・藤兵衛・安左衛門の3人を獄門、十倉村八右衛門を死罪としたほか、十倉村庄治郎、内久井村弥五兵衛、金河内村武右衛門の3人が籠死しました。
また、内久井村久左衛門ら7人が丹波・武蔵国追放、さらに連判人130人も追放となるなど、結局144人全員が何らかの処罰を受け、妻子まであわせると追放者は実に324人にも及んでいます。一揆参加者を除く子孫204人が赦免を受けて帰村したのは、事件からおよそ40年が経った享保10年(1725)になってからです。
死罪となった人々の中になぜか志賀甚兵衛という名前が見当たりませんが、明治時代に入って、檀那寺である長松寺の天井裏からは「天輪一刀禅定門」の戒名と「貞享元年子年八月二十一日」の命日が書かれた甚兵衛の大きな位牌が発見されたといいます。位牌の裏面には「金河内惣百姓」とあり、地域の義民として敬われていたことがわかります。
昭和8年(1933)には二百五十年忌の法要が営まれ、「刀」の文字を含まない「慈山道航居士」という新たな戒名を刻む甚兵衛の墓碑も、金河内地区の山林内に建てられています。
参考文献
『綾部市史』上巻(綾部市史編さん委員会編 綾部市役所、1976年)pp.351-357
『法と刑罰の歴史的考察』(平松義郎博士追悼論文集編集委員会編 平松義郎博士追悼論文集編集委員会、1987年)pp.38-47
長松寺の場所(地図)と交通アクセス
名称
長松寺
場所
京都府綾部市坊口町林3
備考
「長松寺」は、京都府道491号金河内地頭線の「坊口」交差点から北に700メートルほど離れた集落内の高台にあります。入口に「曹洞宗洞谷山長松禅寺」の寺号標があり、参道の坂を登った先が駐車場です。マイカーでアクセスする場合、舞鶴若狭自動車道「綾部インターチェンジ」からおよそ15分です。公共交通機関を利用する場合、JR山陰本線「綾部駅」南口からあやバス(志賀南北線)乗車25分、「池」バス停下車、徒歩15分です。
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