滝脇村石御堂(松平辰蔵と加茂一揆)
天保7年(1836)、三河国(今の愛知県)加茂郡で凶作や米価高騰を機に「加茂一揆」が勃発し、額田郡を合わせ1万人規模に拡大しました。彼らは下河内村(今の豊田市)の松平辰蔵を頭取として、「世直し」を称して酒屋などを打ちこわしながら挙母城下に迫ったものの、最終的には鉄砲隊の力により鎮圧されました。現地には一揆の集合地である滝脇村石御堂や松平辰蔵の墓などが残ります。
義民伝承の内容と背景
天保7年(1836)9月21日、三河国加茂郡では暴風雨による凶作や米価高騰をきっかけとして年貢軽減などを求める一揆が勃発、下河内村の松平辰蔵らを頭取に滝脇村(今の豊田市)石御堂に農民ら数十人が集まり、鎌や斧を手に取り竹筒を吹き鳴らして気勢を上げました。
辰蔵の先祖は徳川家康から松平姓を名乗ることを許された武士で、帰農して下河内村に土着したとされており、辰蔵自身は農業のほか、農閑期に割木業を営む生活をしていたとみられています。
この一揆は後に「加茂一揆」「鴨騒動」などと呼ばれますが、滝脇村など参加を拒んだ村の庄屋宅が打ちこわされたことから、後難を恐れて周辺の村々からの加勢が膨らみ、最終的には加茂郡・額田郡を合わせて247か村、1万3千人ほどが参加する三河地方最大の一揆となりました。
一揆勢は挙母城下を目指し、沿道の米屋・酒屋などを次々に打ちこわしながら進み、年貢の金納相場や物価の引下げ、強制的な頼母子講の休止などを要求しました。
しかし、途中で辰蔵らが奥殿藩や旗本領の代官と交渉した際、当初は年貢の金納相場を1両で8斗とするよう要求していたたところを1両6斗で妥協したため、これが他の一揆参加者の怒りを買って辰蔵自身の屋敷も打ちこわしに遭うなど、終盤に入ると統制が乱れて打ちこわしそのものが目的化してしまいます。
また、地域的に挙母藩領や旗本領が入り組み、当初は複雑な権利関係が当局の取締りを阻んでいたところ、一揆勢が挙母城下に押し寄せる頃には、挙母藩のほか岡崎藩・西尾藩・尾張藩・吉田藩が出兵し、特に挙母藩は矢作川越しに鉄砲を射掛け死傷者が出たことから、勘八山まで潰走を余儀なくされました。
一揆勢は足助で再び蜂起して打ちこわしをするものの、幕府の赤坂陣屋の指示によって岡崎藩兵が足助まで越境したことで多数の農民が捕らえられ、25日までに事態は終息に向かいました。
その後、天保9年(1838)には江戸送りになった辰蔵と九久平村仙吉に評定所から獄門の判決が下されますが、すでに牢死した後であり、遠島とされた九久平村繁吉らも江戸送りの前に赤坂陣屋の牢屋内で首吊り自殺、他に過料などの処罰を受けた百姓が多数に上りました。
水戸藩主の徳川斉昭(烈公)が将軍・徳川家慶に提出した献策書『戊戌封事』の中では、「近年参州甲州の百姓一揆徒党を結ひ又ハ大坂の奸賊容易ならざる企仕猶当年も佐渡の一揆御座候ハ畢竟下々にて上を怨み候て上を恐れざるより起り申候」として、「大塩平八郎の乱」「郡内一揆」「佐渡一国一揆」と並べて危機意識を顕わにしており、幕府に大きな衝撃を与えたことが窺えます。
この一揆の顛末は、『参河誌』を著したことでも知られる国学者にして寺津八幡宮神官の渡辺政香の『鴨の騒立』(かものさわだち)にもまとめられています。
『鴨の騒立』のなかでは、辰蔵が「諸人難渋にて命に拘る趣」なので「天下の御百姓」としての自負をもって「世直の祭」を企てたと証言したことや、「ダマレ上を恐れず不束至極な奴」と罵る役人の取調べにも「上がゆがむと下は猶ゆがみます」と平然と政治批判を展開する様子が描かれています。
一揆の舞台となった滝脇村石御堂は当時の場所からは移動しているものの現在も豊田市内に残り、また妻・りきの法名とともにその名が刻まれた松平辰蔵の墓も旧下河内村の松平家墓地にあります。
参考文献
『農民騒擾の思想史的研究』(布川清司 未来社、1970年)
『戊戌封事』(徳川斉昭述・青山延光記 写本、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533354/1/8)
滝脇村石御堂の場所(地図)と交通アクセス
名称
滝脇村石御堂
場所
愛知県豊田市滝脇町石御堂地内
備考
東海環状自動車道「豊田松平インターチェンジ」から車で10分、瀧脇小学校の北300メートルの車道沿いにあります。ただし、当初の位置(旧道)からは移転しています。