永安寺(柴田助太夫と大浜茶屋村の愁訴)
延宝5年(1677)、三河国碧海郡大浜茶屋村(今の愛知県安城市)庄屋・柴田助太夫は、助郷役免除の訴願を繰り返し、この年死罪になったと伝えられます。しかし、この助太夫の訴願により、大浜茶屋村では以後幕末に至るまで助郷役が免除されることとました。現地には柴田助太夫の墓が残され、屋敷跡は戒名から寺号を採った「永安寺」という寺院になっています。
義民伝承の内容と背景
三河国碧海郡大浜茶屋村では、街道筋の宿駅に人馬を提供する助郷役を命じられたものの、生産力の乏しい畑地ばかりの土地で村が疲弊してしまうとして、庄屋の柴田助太夫が刈谷藩に対して助郷役免除の訴願を繰り返しました。
延宝5年(1677)5月25日、柴田助太夫は死罪となりますが、それと引換えに以後の大浜茶屋村の助郷役は免除されるようになりました。村人たちは助太夫のはたらきに感謝し、その冥福を祈るために屋敷の跡に草庵を建てますが、これが後に助太夫の戒名である「本然玄性居士」、その妻の戒名である「安海永祥大姉」から文字を取って、曹洞宗の「本然山永安寺」という寺院になったということです。
永安寺の境内正面には「雲龍の松」と呼ばれる樹齢300年の見事な枝振りの大木があり、これは柴田助太夫の屋敷にあったものとされるほか、近くの共同墓地には「柴田助太夫墓碑」も残されており、安城市の史跡として指定されています。
『小さな歴史と大きな歴史』によれば、この地に柴田助太夫という庄屋が実在し、特殊な亡くなり方をしたらしいことは、江戸時代の検地帳や過去帳の記載からも明らかですが、その死の理由が果たして助郷役を巡るものであったかどうかは、史実としての裏付けが取れないとしています。
しかし、大浜茶屋村では役人が助郷役指定のための見分に訪れる都度、助太夫が「身命を不惜村方困窮ニ不相成候様」訴願をして死罪になった経緯を書上げとして提出し、助郷役免除の理由に掲げており、実際に幕末に至るまで助郷役の免除は続いています。
参考文献
『小さな歴史と大きな歴史』(塚本学 吉川弘文館、1993年)
『新編安城市史』2(通史編 近世)(安城市史編纂委員会編 安城市、2007年)
永安寺の場所(地図)と交通アクセス
名称
永安寺
場所
愛知県安城市浜屋町北屋敷17番地
備考
伊勢湾岸自動車道「豊田南インターチェンジ」から車で15分。旧東海道沿いにあり、「雲龍の松」で有名な寺院となっている。