義民助兵衛の碑(中島助兵衛と桐洞村越訴)
万治3年(1660)、美濃国武儀郡桐洞村(今の岐阜県下呂市)で尾張藩の重税に反対する農民が神社に屯集し、一揆寸前の状況となりました。同村の中島助兵衛はこれを宥めて単身で江戸に上り、藩主に直訴したところ、重税は解消されたものの、助兵衛は牢死してしまいました。村では助兵衛の墓を造り供養してきましたが、明治時代には新たに「義民助兵衛の碑」も建立されました。
義民伝承の内容と背景
かつての美濃国武儀郡桐洞村は、霧が多く出る気候であったところからこの名が生まれたといわれ、山間にあって地味に乏しく、作物の生育にはあまり適さない土地柄でした。
しかし、尾張藩では代官の独断で、年貢米9石の代わりに麦19石を上納することを命じたため、万治3年(1666)、重税にあえぐ桐洞村の百姓100人余りが諏訪明神の森に集まり、筵旗を立てて太田代官所に押し掛け強訴しようとしました。
桐洞村で人望のあった中島助兵衛は、これをなだめて思い止まらせるとともに、単身で江戸に出向いて尾張藩主・徳川光友の屋敷に忍び込み、邸内を散策していた藩主に直訴したところ、代官は免職となり、年貢も軽減されることになりました。
これと引換えに助兵衛自身は捕らえられて入牢させられ、村人の赦免嘆願により死罪は免れたものの、寛文6年(1666)に52歳で牢死してしまいました。
村人らは藩を憚り密かに山深い場所に助兵衛の墓碑をつくって供養していましたが、明治28年(1895)、助兵衛の事績を顕彰するため白山神社境内に漢学者の依田学海の撰文による「義民助兵衛の碑」が建てられ、その後墓碑とともに「義民の里橋」近くの現在地へと移設されました。
この「義民助兵衛の碑」は、下呂市史跡としての指定を受けており、現地には史跡案内板などが整備されています。
なお、言い伝えられている年代の時点では、桐洞村は尾張藩領ではなく郡上藩領であったという指摘もあります。
参考文献
『岐阜県郷土偉人伝』(岐阜県郷土偉人伝編纂会編 岐阜県郷土偉人伝編纂会、1933年)
義民助兵衛の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民助兵衛の碑
場所
岐阜県下呂市金山町菅田桐洞地内
備考
東海環状自動車道「美濃加茂インターチェンジ」から車で40分、岐阜県道58号関金山線沿い、ドリーム家電ナカシマ手前に「義民助兵衛の碑 0.4キロ」の案内板がある。看板から南に450メートルほど進むと「義民の里橋」があり、橋のたもとの道路の退避所付近に「義民助兵衛の碑」や墓碑が集められている。