鬼洞先生墓(三日市場村和左衛門と赤蓑騒動)
文政8年(1825)、信濃国四ヶ庄平(今の長野県)の貧農らが赤毛の蓑を着て大町宿などの酒屋や米屋を打ちこわす「赤蓑騒動」が起こりました。この一揆は松本藩により鎮圧され、頭取として三日市場村(今の北安曇郡白馬村)和左衛門らが永牢に処せられています。現地には一揆の模様を『赤蓑談』に記した儒者・六角鬼洞の墓などが残されています。
義民伝承の内容と背景
文政8年(1825)は凶作のため米価が高騰しており、西に白馬連峰、東に小谷山地の山並みが迫る、信濃国安曇郡の「四ヶ庄平」と呼ばれる地方でも、百姓の暮らしは困難を極めていました。
特にこの地方には米屋がなかったことから、貧農たちは比較的余裕のある上層農民にかけあって米の売却や借用を求めますが、彼らはこれを拒否し、原料米として酒屋に売り払ってしまいました。そして町場の商人は米を買い占めて利益を蓄え、酒屋も酒造をやめぬ状況の中、ついに貧農たちの不満は爆発します。
この年の12月14日、「四ヶ庄平」の沢度村・佐野村(いずれも今の白馬村)からほら貝を合図に百姓3、40人ほどが集まり、周辺の村々からも人数を集め、北に進んで塩島新田村(今の白馬村)の酒屋を打ちこわしました。次いで一揆勢は南に向かい、大町宿(今の大町市)や池田宿(今の北安曇郡池田町)の米屋・酒屋や大庄屋の屋敷などを打ちこわして回り、最終的な参加者は数千人にも上りました。
大町で寺子屋の師匠をしていた元高島藩士の六角鬼洞は、一揆勢が「しなと云える木の皮にて編たる赤毛の蓑」を着ていたことから、見聞きした内容を『赤蓑談』という書物にまとめました。鬼洞は『赤蓑談』の中で、願意も掲げず破壊と略奪に終始するこの無秩序な一揆を「百性(百姓)騒動の作法に外れ」と非難しています。
松本藩でも城下の防備を固めるとともに、奉行や物頭らが現地に出張って多数の農民を捕え、一連の騒動は12月18日までには鎮圧されました。
この一揆の後、頭取と目された沢渡村枝郷三日市場村和左衛門、佐野村増右衛門、沢渡村定吉及び治兵衛の4人は永牢となり、他にも追放や過料に処せられた者がありました。
参考文献
『どるめん』第22号(宮島潤子ほか JICC出版局、1979年)
『大町市史』第3巻(近世)(大町市史編纂委員会編 大町市、1986年)
鬼洞先生墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
鬼洞先生墓
場所
長野県大町市大町九日町4188番地
備考
長野自動車道「安曇野インターチェンジ」から車で40分。大町市街の弾誓寺境内、観音堂への入口付近に位置する。