義人小林孫左衛門之碑(小林孫左衛門と田野口領一揆)
宝暦4年(1754)、奥殿藩の飛び地であった信濃国佐久郡田野口村(今の長野県佐久市)において、年貢減免を求める百姓が陣屋に強訴する「田野口領一揆」が起き、その一部は江戸への出訴を企てました。頭取とみなされた割元・小林孫左衛門が打首となったことから、近代に入って「義人小林孫左衛門之碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、長野県佐久郡には大給松平家が支配する1万6千石の小藩・奥殿藩の領地があり、田野口陣屋が置かれていました。
田野口村では年貢が高率な上に、浅間山の降灰被害による不作も重なったため、宝暦4年(1754)9月、領内百姓が年貢減免要求を郡代に取り次ぐよう村役人に申し入れ、10月に正式に願書が提出されました。
しかし、郡代の深津源太夫がこれを受理しないまま藩主の縁組問題のため江戸に出立したことから、一部百姓が江戸まで追い掛けて役人の横暴を出訴する騒ぎとなりました。
この件で11月に割元(大庄屋)の小林孫左衛門清茂が逼塞を命じられると、大勢の百姓が陣屋を囲みますが、孫左衛門を解放し、改めて村々から陣屋に願書を提出させることで事態は沈静化しました。
藩では12月に救米の下付と年貢引方(減免)を回答するものの、内容が不十分として17か村の百姓3,500人が再び陣屋を取り囲み、一部は江戸出訴の構えを見せますが、小林孫左衛門の取りなしにより、各村の庄屋が請書を提出し、陣屋に詫びを入れ妥協することで収拾が図られました。
その後江戸から派遣された名代奉行の中村長兵衛らによる強訴首謀者の追及は厳しく、割元の小林孫左衛門が一身に責任を負い、宝暦6年(1756)6月23日に田野口村幸ノ神において打首、家財は闕所となったほか、他にも所払いや手鎖の処罰を受けた百姓が多数に上りました。
孫左衛門の遺骸は村人らによって曹洞宗の大梁山蕃松院に葬られ、密かに墓碑がつくられたほか、屋敷は天童山大徳寺の庫裏として移築されました。
昭和15年(1940)に至り、紀元二千六百年を機に郷土の偉人を顕彰すべく、司法大臣・風見章題額の「義人小林孫左衛門之碑」が建立されました。
参考文献
『佐久の騒動と一揆』 (市川武治 櫟、1996年)
『南佐久郡誌』近世編(南佐久郡誌編纂委員会編 南佐久郡誌刊行会、2002年)
義人小林孫左衛門之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義人小林孫左衛門之碑
場所
長野県佐久市田口中町地内
備考
中部横断自動車道「佐久南インターチェンジ」又は「八千穂高原インターチェンジ」から車で15分。「五稜郭であいの館」前を東に200メートル進んだ道路沿いに建っている。