赤萩村一揆頭取供養碑(橋本弥太夫と今泉打ちこわし)
明和5年(1768)、越前国(今の福井県)で米価高騰の折に米を移出しようとした船主の館が打ちこわされる「今泉打ちこわし」が発生しました。頭取として南条郡赤萩村(今の南条郡南越前町)の橋本弥太夫ら4人が処刑されたことから、村では4人連名の墓碑を建てて供養しました。
義民伝承の内容と背景
明和5年(1768)3月、福井藩では過重な年貢や御用金の負担、米価高騰などで困窮した百姓が城下で「明和の越前一揆」を起こし、役人の罷免や年貢の引下げを実現させていますが、この動きは越前国内の各地へと波及しました。
同年12月14日には、蓑を着用することから当時「蓑虫」と呼ばれた一揆勢が南条郡今泉浦(今の南越前町)にあった船主の北五右衛門の米蔵を打ちこわし、次いで上中津原村(今の越前市)吉助・与右衛門宅をも打ちこわしています。
これは旗本・金森家の白崎陣屋や郡上藩の千福陣屋からの依頼を受けて、福井藩が今泉浦の問屋や村役人に米の積出しを命じたことが背景にあります。貴重な米が他国に移出されて払底すれば、米価高騰にますます拍車がかかるためです。
『福井県南条郡誌』が伝えるところでは、南条郡赤萩村の4人の頭取のうち橋本弥太夫は傘連判状を用いて廻状を作成した学者、藤井久兵衛は村の庄屋を務める事実上の指導者、久右衛門は村の若者たちに遊び宿を貸していたよき理解者、喜右衛門(喜重郎とも)は村の小間使いであったといいます。
一揆後、弥太夫は若者たちの勧めでお伊勢参りに出かけ身を隠していましたが、ちょうど村に帰ろうとしていたところを、百姓姿に変装し喜右衛門に道案内をさせていた役人と遭遇します。気づかぬふりで通り過ぎようとした喜右衛門を見て、弥太夫からつい「そんねすまして何処へ行く」と声を掛けたため、やすやすと役人に捕縛されてしまったということです。
この「今泉打ちこわし」の後、福井藩では厳しい吟味を行い、赤萩村を出頭村と断定の上、頭取4人に死罪を申し渡しました。明和6年(1769)2月13日朝六ツ時、頭取たちは仕置場に引き出されて打首となり、うち喜右衛門と久右衛門の首は獄門に懸けられ、残りは切捨となりました。
百姓側からの処罰者を出さず、多数の役人が処罰された「明和の越前一揆」とは打って変わって、この一揆は百姓側の厳罰という結果に終わったことから、赤萩村では善導院境内に4人の頭取の墓碑を建てて手厚く供養しました。
参考文献
『河野村誌』(河野村誌編さん委員会編 河野村、1984年)
『福井県史』通史編4 近世二(福井県編 福井県、1996年)
赤萩村一揆頭取供養碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
赤萩村一揆頭取供養碑
場所
福井県南条郡南越前町字赤萩29号38番地
備考
北陸自動車道「南条スマートインターチェンジ」から車で20分。国道8号の高架を降りて河野川沿いの集落に入る。