義民岡村権左衛門碑(権左衛門騒動)
幕府領から長岡藩領への村替えにより年貢負担が増大した越後国三島郡川西組9か村(今の新潟県長岡市)は、寛政3年(1791)、浦村組頭・岡村権左衛門を頭取として代官所に年貢減免を訴えたところ、強訴徒党の罪により権左衛門のみが討首獄門の極刑に処せられました。明治時代には権左衛門の事績を顕彰するため、浦村地内に「義民岡村権左衛門碑」が建立されました。
義民伝承の内容と背景
寛政元年(1789)、越後国三島郡浦村・岩田村・飯塚村・朝日村・来迎寺村及び古新田・道半村・宮川外新田・中沢外新田(いずれも今の長岡市)の川西組9か村は、幕府領から長岡藩領へと村替えになりました。増税により困窮した村々は年貢減免を嘆願するものの、一向に聞き届けられることはなく、次第に山林に屯ろして密談する百姓が現れるなど不穏な情勢となっていきました。
寛政3年(1791)、ついに9か村の組頭らが一味神水して廻り連判状(傘連判状)を作成し、浦村組頭の岡村権左衛門を頭取に推挙の上、庄屋・組頭・百姓代46人連印の願書を割元役場を通じて代官所に提出しました。代官は上願断念を促すものの百姓らは承服せず、願書はさらに郡奉行所に差し出され、最終的に田中文右衛門ら藩士3人の合議による表吟味へと移されました。
その結果、願意は認めるものの徒党を組んで強訴した罪は容赦できないとして9人が牢につながれ、うち頭取の岡村権左衛門が寛政4年(1792)8月25日に討首獄門となりました。
『寛政義民岡村権左衛門』の伝えるところによれば、岡村権左衛門は「徒党強訴は全く自身が致す所」として他の者に累が及ばないよう庇ったといい、田中文右衛門ら吟味役の藩士も厳罰を要求する藩の重役に抗議したことから、極刑は権左衛門1人にとどまり、他は追放や過料などの軽い刑罰で済んだということです。
地元では百年忌を迎えた機会をとらえ、明治28年(1895)に浦村地内の信濃川沿いに歴史学者の重野安繹撰文による「義民岡村権左衛門碑」を建立したほか、昭和38年(1963)にも百姓談合の場となった旧岩田村山屋の三滝に「から傘連判状碑」を建立しています。
参考文献
『長岡の歴史』第3巻(今泉省三 野島出版、1970年)
義民岡村権左衛門碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民岡村権左衛門碑
場所
新潟県長岡市浦地内
備考
関越自動車道「長岡南越路スマートインターチェンジ」から車で3分。特別養護老人ホーム「わらび園」向かい、国道351号沿いの松林内にある。