蔵沢翁碑(松山藩代官・吉田蔵沢の顕彰碑)

蔵沢翁碑 先賢・循吏の史跡
手杵をもって政治の理想とした名代官の顕彰碑
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南画家としても知られる松山藩士・吉田蔵沢は、宝暦13年(1763)から18年にわたって代官として民政を担い、正直明白の徳をもって領民を感化したといいます。81歳で亡くなると大法寺に葬られ、昭和9年(1934)には境内に「蔵沢翁碑」が建てられました。

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伝承の内容と背景

松山藩では享保17年(1732)の「享保の大飢饉」で5,705人の餓死者を出し、その後宝暦年間(1751~)に入ってからも大風による凶作が続くなど、農村の疲弊と藩財政の逼迫が大きな課題となっていました。

このような中、かねてから民政に関心のあった吉田蔵沢が代官に志願するものの、あまりに強引な自薦の振舞いに閉門を申し付けられたといいます。

松山藩士・安井煕載(きさい)の著作『却睡草(めざめぐさ)』には「郷中をかけ廻り、民の疾苦を問ひ、地の広狭を察し、専ら富国安民の術を志とせり」とあり、武士でありながらみずから農村に交わろうとする蔵沢の並々ならぬ熱意のほどがうかがえます。

ほどなく閉門を解かれた吉田蔵沢は、宝暦13年(1763)、42歳のとき、松山藩7代藩主・松平定功(さだなり)により、念願だった伊予国風早郡(今の愛媛県松山市)の代官に抜擢されました。

同書によれば、代官を拝命した蔵沢は、小役人や百姓らを呼び寄せると、薪を背負うときに用いる「山おく」と呼ばれる棒を1本取り出して見せ、今の政治はこの棒のように「上下ほそふして中ふとし」だと評したといいます。

これは代官所の元締、手代や村々の庄屋が藩主の権威を振りかざして私欲にふけり、中間搾取をして肥え太るのに都合がよい政治の仕組みになっているという意味です。

今後は手杵(てぎね)のように上下が太く、中を細くすること、すなわち藩主と百姓双方にとってよりよい政治とし、中間にいる小役人の役得をなくすつもりだと宣言しました。

代官として農村に出張する際にも、熊毛で覆われた大きな手杵の形をした槍の(さや)を押し立てて目印にし、常日頃から抱いていた政治の理想形を示したということです。

蔵沢は領内の百姓に倹約を申し付け、家業を怠る者の(びん)の毛を剃り下げて戒めたほか、役人や庄屋からも帳簿を取り上げ、吟味の上で不正があれば処罰するとともに、村々の無駄な出費をできるだけ省くよう努めました。

もっとも、政治に対する厳しい姿勢から、最初は「酷吏」と噂され、領内百姓が「そしりのゝしる」こともあったといいますが、実際に役人の不正がなくなり、藩倉に米が満ちるにつれて、蔵沢の「正直明白」の徳が知られるようになりました。

吉田蔵沢は明和6年(1769)には野間郡(今の愛媛県今治市)の代官も兼ね、つごう18年間にわたって代官の職にありましたが、そのいっぽうで『康煕字典』を愛読するなど学問に通じたほか、南画をよくし、特に墨竹の作風は「其妙なる事神ニ入れり」と評価されています。

その後、代官から者頭(物頭)まで出世した蔵沢でしたが、晩年は山田五郎兵衛一件に連座して隠居させられるなど不遇で、享和2年(1802)に81歳で亡くなり、松山城下の大法寺に葬られました。この名代官といわれた吉田蔵沢を顕彰するため、昭和9年(1934)には伊予史談会により「蔵沢翁碑」が境内に建てられました。

参考文献

  • 『却睡草・赤穂御預人始末』 (伊予史談会双書13)(伊予史談会編 伊予史談会、1986年)pp.55-57
  • 『愛媛県史』近世上(愛媛県史編さん委員会編 愛媛県、1986年)pp.223-224
  • 『愛媛県史』芸術・文化財(愛媛県史編さん委員会編 愛媛県、1986年)pp.37-39
  • 『松山市史』第5巻(松山市史編集委員会編 松山市、1995年)p.738
  • 『愛媛県歴史の道調査報告書』第4集(愛媛県教育委員会文化財保護課編 愛媛県教育委員会、1996年)p.28

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蔵沢翁碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

蔵沢翁碑

場所

愛媛県松山市本町5丁目4

089-925-7335(大法寺)

備考

「蔵沢翁碑」は、松山城下を走る国道196号の西側、大法寺の山門を入ったすぐ左側に建っています。境内裏手の墓地内、本堂に近い目立つ樹木の下にある区画には「吉田蔵沢の墓」もあります。公共交通機関を用いる場合は、伊予鉄道「松山市駅」からいよてつ市内電車(本町線)乗車10分、「本町五丁目駅」下車、徒歩1分です。マイカーの場合は、松山自動車道「松山インターチェンジ」から松山外環状道路経由で15分となっています。

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吉田蔵沢の墓
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