五社霊神(渡部権太夫と徳能村箱訴事件)

五社霊神 義民の史跡
箱訴の末に一家で処刑された庄屋を祀る神祠
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伊予国桑村郡徳能村(今の愛媛県西条市)の庄屋・渡部権太夫は、西国巡礼を装って江戸に上り、目安箱に訴状を投じて松山藩の苛政を改めさせたと伝えられます。貞享3年(1686)、藩政を誹謗した罪により権太夫の一家5人ともども打首となったことから、土地の人々は「五柱霊神」の祠を建てて祀りました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代前期の寛永12年(1635)、松平定行が伊勢桑名藩11万石から伊予松山藩15万石に転封となりました。以後、伊予国桑村郡徳能村は松平氏の支配下に置かれますが、凶作と役人の悪政により人々は困窮し、一揆でも起ころうかという騒然とした状況になったといいます。

庄屋の渡部権太夫は、人々をなだめて暴発を防ぐとともに、松山藩の役人に愁訴しましたが、役人は上に願意を取り次がず、困窮の度合いはますます深まるばかりでした。この渡部権太夫の先祖は、代々にわたって伊予国宇摩郡の代官を務めた家系で、子孫が分家して徳能村に移住し、庄屋を務めるようになったといわれています。

責任ある庄屋として人々の困窮を見るに忍びなくなった権太夫は、西国巡礼を装って江戸に上り、幕府の目安箱に訴状を投じました。ほどなくして願意は藩庁にも達し、不正をした役人が退けられ、藩政は改まったということです。

しかしながら、権太夫自身は藩政を誹謗した罪に問われ、貞享3年(1686)6月晦日(30日)、桑村郡新市村(今の西条市)にあった刑場で打首に処せられました。権太夫は後難を避けるため、あらかじめ妻とは離縁していたものの、老母と3人の子供は救うことができず、連座して5人ともども打首になったということです。

人々は権太夫一家の遺骸を納めて塚を築きましたが、翌年、桑村郡黒谷村(今の西条市)庄屋の長井勘右衛門が後任に任命されて徳能村に入った際、ひそかに僧侶を招じて法要を営んだといいます。権太夫の戒名は「繋得了卜信士」で、今も丹波神社裏の高台に墓があります。

それから70年以上を経た宝暦12年(1762)正月、人々は小祠を建てて渡部権太夫の一家5人の霊を「五社霊神」として祀り、毎年3月17日と9月16日に例祭を行ってきました。当時の棟札には「奉鎮祭五社之霊神 宝暦十二年正月廿日 神主 宮原出羽」とあります。

戦後の昭和29年(1954)、徳能集落では「五社霊神」の祠を改築するとともに「庄屋権太夫之碑」を建立し、祭礼日を当時の天皇誕生日に当たる毎年4月29日に改め、子供神輿の渡御をはじめました。今でも報恩感謝と五穀成就を祈念する「五社霊神祭」が毎年実施されるほか、平成27年(2015)には徳能集落内にある瑞巌寺と渡部権太夫の墓前で330年忌法要も執り行われています。

参考文献

『伊予善行録』(愛媛教育協会編 三好源十郎、1902年)
『伊予偉人録先哲人名辞典』(城戸徳一 愛媛県文化協会、1936年)
日本民俗文化資料集成24『子供の民俗誌』(黒川健一 愛媛文化双書刊行会、1975年)
日本歴史地名大系第39巻『愛媛県の地名』 (大石慎三郎監修 平凡社、1980年)
『東予市誌』(東予市誌編さん委員会編 東予市、1987年)

五社霊神の場所(地図)と交通アクセス

名称

五社霊神

場所

愛媛県西条市丹原町徳能甲509-2

備考

「五社霊神」は、西条市丹原町徳能の徳能集会所前の市道を南西に70メートルほど進んだ道路脇の一角、湯座八幡大神社の表参道と直交する位置にあります。コンクリート壁で囲まれた境内には、「五社霊神」の祠と「庄屋権太夫之碑」が左右に並び立ち、正面手前右に西条市丹原文化協会が作成した解説板が設置されています。
現地までのアクセスは、車の場合、今治小松自動車道「東予丹原インターチェンジ」から西へ5分ほどです。ただし、周囲に駐車できるスペースは徳能集会所(東へ70メートル)と瑞巌寺(西へ200メートル)しかありません。
公共交通機関の場合、JR予讃線「壬生川駅」から瀬戸内周桑バス(関屋線)乗車15分、「徳田」バス停下車、徒歩5分です。

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