切牛(佐々木)弥五兵衛の墓(弘化・嘉永三閉伊一揆)
弘化4年(1847)、陸奥国(今の岩手県)盛岡藩主・南部利済の悪政に対し、三閉伊通の百姓1万人以上が決起し、切牛の弥五兵衛指導の下、新税撤廃などを要求して遠野城下に強訴しました。藩は百姓の要求を認め、藩主は一旦隠居しましたが、ほどなく復権して院政を敷いたため、嘉永6年(1853)に再び一揆が起こり、畠山太助や三浦命助を頭取に1万6千人が仙台藩に越訴、年貢減免などの要求を認めさせました。現地はこの2つの「三閉伊一揆」の義民たちを顕彰する石碑などが建てられています。
義民伝承の内容と背景
盛岡藩第12代藩主の南部利済(としただ)は、幕府からロシア船南下に伴う蝦夷地警備を命じられるなどして財政が逼迫する中、家老の横沢兵庫を重用して殖産興業政策を推進します。
しかし、盛岡城本丸御殿の改築(「聖長楼」)や津志田遊郭の開設などの無駄な事業も多く、その財源を専売制強化や御用金徴収で賄おうとしたため、山がちで生産性が低く漁業・林業・鉱業・製塩で生計を立てていた三陸沿岸の野田通・宮古通・大槌通に住む人々の生活を直撃します。
弘化4年(1847)11月、これら三閉伊地域の農漁民が一斉蜂起する「弘化三閉伊一揆」が起こり、70歳近くの高齢になる佐々木弥五兵衛が一揆の惣頭人を務めました。
彼は陸奥国閉伊郡浜岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)又は小本村(今の下閉伊郡岩泉町)出身とされ、訴訟代行に携わる公事師であるとともに、塩や海産物を内陸に運び雑穀と交換する牛方として生計を立てており、十数年にわたり領内をくまなく回って一揆を促したことから、「小本の祖父(おど)」と呼ばれ慕われていました。
弥五兵衛率いる百姓たちは続々と南下し、代官所がある宮古町で酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ちこわすと、翌12月には総勢1万2千人で藩家老の南部弥六郎が治める鍋倉城下(今の遠野市)の早瀬川原に集合します。
このとき藩庁があった盛岡からは家老の南部土佐が派遣されてきましたが、弥五兵衛はこれを無視し、12月4日、遠野南部家の家老・新田小十郎に御用金の免除などを求める26か条からなる願書を提出しました。
願書は安家村(今の岩泉町)百姓・俊作が起草したものですが、うち「此度被仰付候御用金の事」はじめ12か条が即座に認められ、他は追って回答されることになったため、一揆勢は5日に解散し、遠野南部家の計らいで食糧(米)をもらって帰村しています。
その後も藩家老・横沢兵庫が罷免され、藩主・南部利済は隠居して長男・南部利義に家督を譲るなど、百姓有利の状況が続きましたが、当の弥五兵衛は藩が約束を破るであろうことをすでに見越しており、領内に潜伏して次の一揆に向けた農民の説得や資金集めなどを行っていました。
そして翌年の嘉永元年(1848)1月、二子通の上根子村(今の岩手県花巻市)で活動していた弥五兵衛は、同心・工藤乙之助(歌人・石川啄木の曽祖父)に捕縛されて盛岡に送られ、公式(『内史略』)には6月15日に牢死したとされています。
ただし、切牛集落に残る弥五兵衛の墓には「嘉永元年五月十七日」と命日が刻まれ、実際にはそれ以前に非公式に斬首されたとも伝えられます。
果たして隠居したはずの南部利済は、嘉永2年(1849)には13代藩主・利義(としとも)を廃して優柔不断な利剛(としひさ)を14代藩主に据え、「君側の三奸」と呼ばれた参政の石原汀・田鎖左膳・川島杢左衛門を重用して藩政に介入し、高額な御用金を賦課するようになりました。
そこで嘉永6年(1853)には再び「嘉永三閉伊一揆」が勃発し、弥五兵衛の遺志を継いだ畠山太助や三浦命助らの新たな指導者により、「小○」(「困る」の当て字)の旗を掲げた1万6千人が仙台藩に越訴し、税の減免などのほとんどの要求を藩に認めさせるとともに、安堵状による一揆首謀者の免責を勝ち取っています。
なお、畠山太助は明治6年(1873)に地租改正反対運動を首謀した嫌疑を受けて盛岡の宿屋で自殺、三浦命助は後に別件で投獄され、『獄中記』を記しつつ元治元年(1864)に盛岡で牢死しています。
昭和46年(1971)には弘化・嘉永の三閉伊一揆の義民を偲び、田野畑村に「三閉伊一揆の像」が建立され、後に田野畑村民俗資料館敷地内に移設されました。
参考文献
『岩泉地方史』下巻(関口喜多路 岩泉町教育委員会、1980年)
『安家村俊作―三閉伊一揆の民衆像』(茶谷十六 民衆社、1980年)
『内史略』第4・第5(横川良助 岩手県文化財愛護協会、1974~75年)
切牛(佐々木)弥五兵衛の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
切牛(佐々木)弥五兵衛の墓
場所
岩手県下閉伊郡田野畑村切牛地内
備考
三陸自動車道「田野畑南インターチェンジ」から車で5分。島越黎明台団地の南側にあり、岩手県道44号岩泉平井賀普代線沿いに入口を示す縦長の看板が出ています。実際の弥五兵衛の墓はこの看板から西に70メートルほど入った畑地の際にあり、弥五兵衛の墓に隣接して妻の墓があります。墓地にも教育委員会が作成した案内板が建っています。