義民喜八の碑(辺法寺村喜八と亀山騒動)
明和5年(1768)、伊勢国(今の三重県)亀山藩領の百姓5千人以上が藩の年貢増徴に反対する一揆を起こし、代官罷免などを認めさせました。この一揆は「亀山騒動」と呼ばれますが、頭取の辺法寺村(今の亀山市)喜八らが斬罪となったため、地元には彼を義民として顕彰する石碑などが建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期、亀山藩では朝鮮通信使接待や御手伝普請により借財が嵩んだため、永荒田畑の再検地による年貢増徴で藩財政を賄おうとしました。
このため明和5年(1768)9月、広瀬野に棲む化け狐「広瀬野源太夫」の名で、各村男子に残らず広瀬野に集まるよう促す廻状が領内83か村に届きました。
9月13日には5千人以上の百姓が広瀬野に集まり、総大将に伊船村(今の鈴鹿市)の豪農・真弓長右衛門、頭取に国府村(同)の打田仁左衛門、補佐頭取に辺法寺村喜八ら3人を、そして各村でも頭分を1人選出して一揆の約定を交わしました。
9月14日になると、一揆勢は西富田村(今の鈴鹿市)庄屋の孫四郎宅に押し寄せ、水車場を破壊して米を奪うとともに、一揆勢の動きを大庄屋に知らせたのは言語道断とする「罪状」を記した張紙を残しています。
以後も一揆勢は打ちこわしを伴い亀山城下に進撃し、行く先々で「罪状」を述べています。説得のため庄屋や役人が近づくと「振り飄石(ふりずんばい)」と呼ばれる投石器で撃退したとも伝えられます。
15日に一揆勢は年貢減免や役人の罷免を求める願書を提出しますが、16日には広瀬野で大目付から退去を命じられ、周囲を鉄砲隊に包囲されたこともあって、ここに解散を決め帰村することになりました。
11月1日、亀山藩は検地を企て百姓の怒りを買った代官・猪野三郎左衛門らを罷免するとともに、百姓に人気の生田理左衛門らを作事奉行に任命しました。
一方で一揆の頭取として真弓長右衛門・小岐須村(今の鈴鹿市)嘉兵衛・辺法寺村喜八を捕縛し、明和7年(1769)6月13日に阿野田磧で斬首しました。
地元には一揆の頭取を義民として顕彰するための石碑などが建てられています。
参考文献
『鈴鹿市史』第2巻(鈴鹿市教育委員会編 鈴鹿市、1983年)
『亀山地方郷土史』第3巻(山田木水 三重県郷土資料刊行会、1974年)
義民喜八の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民喜八の碑
場所
三重県亀山市辺法寺町888番地
備考
東名阪自動車道「鈴鹿インターチェンジ」から車で10分。高台にある「辺法寺営農組合集会所」敷地内の入口付近に所在する。