二斗八升神社(原助弥と二斗八騒動)
延宝2年(1674)、信濃国(今の長野県)善光寺平の名主らが合議し、松代藩領の年貢を籾1俵当たり2斗8升に引き下げるよう幕府に直訴し、頭取として水内郡下高田村(今の長野市)助弥らが藩に捕らえられ処刑されました。現地には助弥を祀る「二斗八升神社」が鎮座しています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代前期、松代藩は3代藩主・真田幸道が治めていましたが、このころ藩では籾1俵当たりの玄米を2斗8升から3斗に引き上げて年貢の増徴を図ろうとしました。
善光寺平の名主らは減免の訴願を行うものの聞き届けられなかったことから、善光寺の庭に集まり合議の末、この窮状を幕府に直訴することに決まりました。
しかし、後難を恐れて願書を書こうとする者がなく、信濃国水内郡下高田村の18歳になる原助弥が筆を執り、本文に続く名主らの署名は傘連判状形式にし、首謀者を特定できないようにした上で幕府に提出されました。
これを「二斗八騒動」といい、松代藩は幕府に年貢を再考するよう命じられるものの、かえって筆跡をもとに首謀者を詮索し、助弥らを捕縛しました。
助弥は取調べの際に磨臼を持ってこさせ、籾を精米すると玄米2斗8升になることを実演して訴えの正しいことを証明したともいいますが、結局は一揆の首謀者として堀村名主の金丸伝兵衛、西尾張部村吉兵衛(いずれも今の長野市)とともに鳥打峠で処刑されることになりました。
鳥打峠で打首となる際、助弥が「二斗八だぞ」と叫んだとおり、延宝2年(1674)11月11日には年貢を2斗8升に戻す触書が出されたことから、村人らは義民助弥に感謝し、村の鎮守の境内に「天神社」に偽装してその霊を祀ったほか、善光寺境内にも石塔を建立して「二斗八の墓」と称したといいます。触書も「助弥条目」として寺子屋の手習いの手本に用いられました。
ただし、「二斗八の墓」こと善光寺の「海津千人塚」については、二斗八騒動に関連した供養塔ではなく、それ以前の川中島藩主・森忠政による検地に反対して鳥打峠で磔刑にされた一揆犠牲者の供養塔という説もあります。
いずれにしても、江戸時代にはほぼ口碑のみとなっていた下高田村助弥、通称「二斗八様」の事績は、明治時代になると公に顕彰されるようになり、大正14年(1925)には新たに「義民助弥之祠」が建てられたほか、地元の「信濃毎日新聞」紙上でも紹介され、広くその名を知られるようになりました。
参考文献
『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男 郷土出版社、1986年)
『長野市誌』第8巻(旧市町村史編)(長野市誌編さん委員会編 長野市、1997年)
二斗八升神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
二斗八升神社
場所
長野県長野市高田2435番地
備考
上信越自動車道「須坂長野東インターチェンジ」から車で10分。緑ヶ丘小学校向かいにある伊勢神社境内の最奥に鎮座する。