馬原供養塔(穴井六郎右衛門と馬原騒動)

馬原供養塔
代官の苛政を直訴した頭取らの供養塔

2023年5月16日義民の史跡

延享3年(1746)、豊後国日田郡馬原(まばる)村(今の大分県日田市)庄屋・穴井六郎右衛門ら3人は、幕府日田代官・岡田庄太夫俊惟(としただ)の苛政に対抗し、年貢減免と夫食米借用を求めて江戸で越訴に及びました。いったん帰国した一同は代官に捕らえられて全員処刑され、龍川寺和尚が密かに首級を持ち出して境内に埋葬したといいます。今でも日田郡内の各地には、これらの義民の顕彰碑などが建てられています。

義民伝承の内容と背景

幕府領の豊後国日田陣屋には、将軍・徳川吉宗の「享保の改革」の折から、享保19年(1734)に幕府御家人の岡田庄太夫俊惟が代官として派遣され、定免法の導入はじめ、年貢増徴や助合穀の新設などを行いました。

特に「助合穀」は救荒用の備蓄米として百姓から徴収するものですが、実際には換金して商人に貸し付け利息収入を得ており、百姓にとっては年貢に加えて二重の課税同然となっていました。

このため、凶作に当たり食物にも事欠く百姓の困窮はさらに深まる結果となり、日田郡馬原村の庄屋・穴井六郎右衛門が代官所に訴えるものの聞き入れられず、百姓の他領への逃散も相次ぎました。

ついに延享3年(1746)正月、穴井六郎右衛門は71歳の老齢ながら、日田郡・玖珠郡13か村を代表して江戸表に出て越訴することとなり、ほかに六郎右衛門次男の要助、馬原村組頭・飯田惣次が付き添い、年貢軽減と夫食米の借用などを幕府に要求する血判付きの訴状を目安箱に投函しました。

彼らはいったん投獄された後、その年の12月には釈放されましたが、帰国するやいなや、国元の代官所から徒党強訴の罪で12月29日に再び捕らえられ、穴井六郎右衛門と要介は浄明寺川原で即日死罪獄門、飯田惣次も死罪となり、その他にも400人以上の百姓が所払や過料、手鎖などに処せられました。

3人が処刑されたあと、助命嘆願をしていた地元の龍川寺13世の水誉龍作和尚が、身命を堵して獄門台から彼らの首級を持ち去って境内に埋葬し、その後、宝暦2年(1752)の七回忌に建てた供養塔が「馬原供養塔」として今に残っています。

なお、この供養塔では公儀を憚って、本名の「六郎右衛門」を「六郎左衛門」、「要介」を「用介」、「惣次」を「惣次郎」と意図的に1字違いにしています。

他にも明治15年(1882)、馬原村内に六郎右衛門の名字から山号を採った「穴井山仏生寺」(当初は蓮台寺)が、大正14年(1925)に⻲山公園の中心にある日隈山中腹に「義民穴井六郎右衛門之碑」が建てられるなど、日田郡内の各地で顕彰が続けられています。

参考文献

『日田義民傳』(武石繁治 馬原村義民建碑委員会、1954年)
『大分県史』近世篇Ⅲ(大分県総務部総務課編 大分県、1988年)
『天瀬町誌』(天瀬町編 天瀬町、2005年)
『大分の歴史』第6巻 本編(豊田寛三・後藤重巳編 大分合同新聞社、1978年)

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馬原供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

馬原供養塔

場所

大分県日田市大字三和財津町3144番地

備考

国道212号から財津の集落内に入り、「財津」バス停降りてすぐの龍川寺境内左手に見える墓地正面にある。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)