義少年合同の碑(二義少年と恋路・七房村水論)
江戸時代前期の寛文年間、周防国恋路村(今の山口県山口市)の2人の少年が、旱害に悩む村人のために宮野川上流の井手を切り、無断で川の水を村の水田まで引き入れました。この一件は上流の村との水論となって容易に解決を見なかったため、2少年は長州藩主・毛利綱広に窮状を直訴しました。結果として水論は解決したものの、2少年は罪人として処刑されたため、村人たちは無銘の碑を建てて供養しました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代前期の寛文年間(1661~1673)、周防国吉敷郡恋路村を夏の旱魃が襲い、水田の稲はまさに枯れようとしていました。
小字の中恋路・下恋路にそれぞれ住んでいた2人の少年は、このままでは村人たちが餓死してしまうと危ぶみ、山口の祇園祭で人々が出払っているのを幸いに、「一之井手」から上流の井手13枚を切り、干上がった村の水田へと密かに宮野川(椹野川)の水を引き入れました。
稲は蘇生し豊かな収穫を得ることができましたが、水を盗まれた七房村(今の山口市)との争論は激しさを増し、収拾がつかなくなったため、2少年は萩まで出向いて藩主・毛利綱広に窮状を直訴しました。
訴訟は10年の長きにわたり、2少年の家は資産をほぼ使い果たしてしまいましたが、最終的に藩では2少年の要求どおり、水不足の際には井手13枚を切り落とすことを認めました。
しかし、直訴をした2少年は萩の大屋(鶯谷)刑場で処刑されてしまったため、遺骸の下渡しを受けた村人たちは、中恋路・下恋路にそれぞれ石の碑を建てて丁重に弔いました。これらの石仏碑は今でも地元に残されていますが、罪人であることから2少年の名は伝えられておらず、碑にもまた刻まれてはいません。
昭和50年(1975)、「一之井手」が改築されたことを機に、翌年に新たな「義少年合同の碑」が建てられ、元の石仏碑から魂抜きをして、改めてこの碑に2少年の霊が祀られることになりました。
参考文献
『趣味の山口』(防長史談会編 防長史談会、1931年)
『山口市史』地区篇(山口市史編纂委員会編 山口市、1961年)
義少年合同の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義少年合同の碑
場所
山口県山口市宮野上地内
備考
中国自動車道「山口インターチェンジ」から車
で10 分、又は「宮野新橋」バス停から徒歩2分。国道9号宮野新橋の北、椹野川沿いに建てられている。