長州藩の益田氏給地となっていた周防国長野村(今の山口県山口市)は重税や課役に苦しみ、代官に訴えても叱責を受けるのみでした。そこで宝永7年(1710)、庄屋の子である松原清介と友人の常田角左衛門が藩主に直訴し、願意は認められたものの、2少年とも刎首の刑に処せられました。明治時代にはその事績を顕彰するため「二義少年碑」も建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の元禄年間、周防国吉敷郡長野村は長州藩の益田就高の給地となっており、陪臣の作間氏に農民を使役させ、新たに開墾した農地に重税を課していました。
宝永7年(1710)、長野村の52人が藩の代官・内海与一右衛門に訴えますが、代官はこれを叱責して「レンガク(田楽)を立て候様に串に刺させ磔刑に掛けさせ可申」と脅すのみで、村人たちの訴えが取り上げられることはありませんでした。
長野村庄屋の長男である松原清介、その友人である常田角左衛門の両人は、役人を排除しようと日々思案に暮れていたところ、たまたまこの地を訪れた旅の六部(廻国僧)に同情され、藩庁への直訴の手続きなどを詳しく教えられました。この六部の正体は幕府の隠目付・大川伊左衛門であり、諸国の内情を探るために扮装していたといいます。
同年12月、清介・角左衛門の両人が萩城に出向いて藩主に訴えたところ、給主の益田氏は逼塞、作間氏も追放、長野村790石は藩が没収することとなり、積年の患いは除かれました。
しかし、罪に問われた清介と角左衛門も、正徳元年(1711)11月26日に大屋刑場において刎首の刑に処せられました。時に清介は21歳、角左衛門は19歳であったといいます。
人々は墓を建てたり年忌供養を行うなどして供養するとともに、長野村を再び益田家領にしようとする企てに対しては、元文4年(1739)、享和2年(1802)、安政7年(1860)の3度にわたり長野八幡宮で起請文を交わして結束を確認しました。維新後の明治32年(1899)には、井上馨篆額、品川弥二郎撰文による「二義少年碑」も建てられました。
なお、おおむね口碑に基づくこれらの内容に対して、関係者の口書(供述調書)が残る長州藩「大記録」などの史料をもとに、歴史的な事実を探ろうとする試みもあります。
たとえば、石川敦彦(2014)*は、一揆の原因は農地の開墾ではなく石当たり3升5合の「撰欠米」などの過重な負担にあったことや、幕府巡見使に直訴した「浮石義民事件」などをもとに旅の六部を隠目付に仮託した伝承が生まれた可能性があることを論じています。また、清介と角左衛門は、長野村百姓52人が益田家萩屋敷へ直訴に向かう途中、山口御茶屋(藩の公館)にその旨を届け出たことが理由となって、藩の取調べを通じて「訴人之頭取」に仕立て上げられたものであり、一揆の首謀者ではなかったのではないかともしています。
参考文献
『山口市史』(山口市史編集委員会編 山口市、1982年)
『清介・角左衛門を偲ぶ 二義少年三百年祭』(二義少年奉賛会 二義少年奉賛会、2011年)
石川敦彦「宝永七年長野村一揆について」『山口県地方史研究』第112号(山口県地方史学会編 山口県地方史学会、2014年)
二義少年碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
二義少年碑
場所
山口県山口市大内長野地内
備考
中国自動車道「山口インターチェンジ」から車で3分、県道26号山口鹿野線沿い、長野八幡宮鳥居の脇にある。道路挟んで反対側には角左衛門を供養する石仏を祀る阿弥陀堂もある。
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