義人吉左衛門の碑(有田村吉左衛門と広島藩享保一揆)
広島藩では5代藩主・浅野吉長の時代、豪農を所務役人や頭庄屋に任命し、定免制を採用するなどして農村支配の強化を図りました。こうした「正徳新格」に反発し、享保3年(1718)には安芸・備後両国(おおむね今の広島県)にまたがる30万人規模の「享保一揆」が勃発したことから、藩は「正徳新格」を廃止し、百姓側の要求の多くを認めました。その一方で安芸国山県郡有田村(今の山県郡北広島町)の吉左衛門はじめ多くの百姓が極刑に処せられ、各地に供養碑などが建てられています。
義民伝承の内容と背景
広島藩5代藩主・浅野吉長の時代には、窮乏する藩財政を立て直すため、若い藩主を中心にさまざまな藩政改革が行われました。
特に「正徳新格」として、従来の代官制を廃止するとともに、有力農民を所務役人・頭庄屋に任命したり、年貢の税率を固定する定免制を採用したりといった、農村支配の強化が図られたのもこの頃でした。
このような状況下で、既に隣接する福山藩・三次藩でも夏の旱魃と秋の長雨による凶作を背景に大規模な百姓一揆が勃発していました。
享保3年(1718)にはいよいよその波が広島藩領にも飛び火して、3月12日に備後国三上郡本村(今の庄原市)の百姓が蜂起したのを皮切りに、備後国・安芸国の30万人が参加したともいうほぼ全藩規模の「享保一揆」へと発展しました。
この一揆では安芸国山県郡有田村の吉左衛門、中祖村の安左衛門(いずれも今の山県郡北広島町)らが頭取となり、頭庄屋の打ちこわしなどを行ったほか、広島藩に対しても25か条の要求を突き付けました。
広島藩は所務役人・頭庄屋を罷免するとともに、定免制を廃止して土地の生産力や作柄に応じた土免制に復することや、年貢を減免することなどを定めた「御宥状」を発布して一揆の沈静化を図りました。
しかし、百姓らの要求を受け入れただけでは終わらず、広島藩ではその後に大々的な一揆の首謀者の責任追及を行い、吉左衛門は同年6月26日に逮捕され、詳しい吟味のないまま7月9日には五郎淵河原で首を刎ねられ、旧石見街道沿いに梟首されました。
享保9年(1724)には梟首場に吉左衛門を供養する地蔵が建てられ、昭和60年(1985)にもこの経緯を記した「義人吉左衛門の碑」が建てられています。
この一揆では吉左衛門・安左衛門はじめ獄門や討首、永牢、追放などの刑罰を受けた者が多数(極刑だけで65人とも)に上ったほか、刑罰を逃れるために94人が欠落しました。
参考文献
『千代田町史』通史編 上(千代田町編 千代田町、2002年)
『雄鹿原村史』(雄鹿原村史編纂委員会編 芸北町、1978年)
義人吉左衛門の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義人吉左衛門の碑
場所
広島県山県郡北広島町有田地内
備考
国道261号・広島県道5号浜田八重可部線の「壬生口」交差点から西に100メートル進んだ旧道沿いにあります。