素盞嗚神社(徳永徳右衛門と福山藩天明一揆)
天明6年(1786)、備後国(今の広島県)福山藩領では、地方巧者・遠藤弁蔵の重税路線に耐えかねた百姓が蜂起し、年末にいったん沈静化するものの翌年になって再燃、庄屋宅の打ちこわしや隣藩・岡山藩への越訴を行いました。この「福山藩天明一揆」では、安那郡徳田村(今の広島県福山市)庄屋・徳右衛門の尽力により、極刑による百姓側の犠牲なく、未進年貢の帳消しや綿会所廃止などの要求が認められたといいます。
義民伝承の内容と背景
福山藩4代藩主・阿部正倫は、老中・田沼意次の下で猟官運動を盛んに行い藩財政の逼迫を招いたため、地方巧者の遠藤弁蔵を勘定方の要職に登用して財政再建の任に当たらせました。
天明年間、長雨や冷害による凶作に見舞われた備後国では「天明の大飢饉」が起こりますが、福山藩は年貢を月割で上納させたり、急用米として臨時に税を取り立てたりしたため、領内百姓の不満が鬱積していました。
こうして天明6年(1786)12月16日、素盞嗚神社に結集した百姓たちが庄屋宅を打ちこわしたのを皮切りに、福山藩最大の全藩一揆「天明一揆」が始まり、付近の天王川原には4万人もの百姓が集まりました。
急報を聞いて城下からも役人が駆け付けますが、同時代に書かれた一揆の記録『安部野童子問』によれば、百姓らは「悪口交りに小石を打付」けたとあります。
一揆勢はやがて人望があった安那郡徳田村の庄屋・徳右衛門宅に集まり、藩の役人に32か条からなる願書を提出し、藩側もいったん要求を受け入れたため平和裏に解散しました。
ところが、翌天明7年(1787)になると、役人は藩主の意向を受けて要求を拒否し年貢残米の納付を迫ったため、全藩にわたる一揆が再発し、芦田川を渡り隣藩・岡山藩に越境した百姓が盛んに福山藩の悪政を喧伝しました。
ここに至って藩主・阿部正倫も百姓の要求をほぼ認めるとともに、遠藤弁蔵を罷免して事態の収拾を図ることとしました。
一揆の首謀者として入牢していた百姓たちも3月に阿部正倫が老中に就任すると恩赦で釈放され、百姓側の犠牲を出さずに一揆は終結しました。
参考文献
『近世社会経済叢書』第11巻(本庄栄治郎編 改造社、1927年)
素盞嗚神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
素盞嗚神社
場所
広島県福山市新市町戸手1番地1
備考
JR「上戸手駅」を降りて石見銀山街道を西に200メートル進む。境内は芦田川・神谷川に挟まれ、天王川原が広がる。