新本義民碑(義民四人衆と新本義民騒動)
享保3年(1718)、岡田藩に入会山を接収された備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の百姓惣代4人が江戸に出向いて藩主・岡田長救に直訴し、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、4人は飯田屋河原で死罪となりました。この「新本義民騒動」で犠牲となった4人は後に「義民四人衆」と称され、「義民社」や「義民碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、備中国下道郡新庄村・本庄村は岡田藩と呼ばれる1万石の小藩の領地でしたが、入会地としていた大平山・春山が「お留山」として藩に取り上げられ、樹木の伐採はもちろんのこと、肥料や牛馬の飼葉にする下草を刈ったり、薪を採ったりすることも禁止されてしまいました。
加えて、岡田藩から樹木の伐採と陣屋(今の岡田小学校)までの運搬の賦役を課せられ、その手間賃もわずかだったことから、生活に大きな支障を来たすようになりました。
これに反発した新庄村と本庄村の百姓203人は寄合を持ち、藩に嘆願書を差し出したところ、寺方の斡旋もあって、享保2年(1717)4月、不十分ながら山の一部が村へと返還されました。
このとき百姓らは起請文に血判の上、将来の留山奪還を決議して結束を固めたといいます。
その後、藩はますます監視を強め、盗伐の疑いで百姓の出頭を求めたり、庄屋を難詰したりしたため対立が激化し、ついに享保3年(1718)、百姓惣代として松森六蔵・荒木甚右衛門・森脇喜惣治・川村仁右衛門の4人が江戸に出府し、3月2日と4日の両日、藩邸の門前で藩主・岡田長救(ながひら)への直訴に及びました。
結果として入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、岡田藩では藩主自ら幕府老中に伺いを立て「心次第ニ仕置可申」との回答を得た上、同年6月7日に惣代4人を新本川の飯田屋河原で死罪に処しました。
これら一連の顛末を「新本義民騒動」といいますが、処刑された仁右衛門の遺体は旦那寺である本庄村円尾寺が、他の3人の遺体は新庄村西明寺が引き取り、それぞれ墓を建てて丁重に埋葬しました。
彼ら「義民四人衆」は明治時代に「義民社」の小祠に祀られ、現在は新本小学校裏に鎮座しているほか、処刑場の飯田屋河原近くには「義民碑」も建てられ、岡山県出身の総理大臣・犬養毅が揮毫をしています。
大正6年(1917)に「義民四人衆二百年祭」が挙行されて以来、毎年夏の「義民祭」も地域の恒例行事となっており、今でもさまざまな機会を通じて顕彰が続けられています。
参考文献
『岡山県史』第7巻 近世2(岡山県史編纂委員会 岡山県、1985年)
新本義民碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
新本義民碑
場所
岡山県総社市新本地内
備考
岡山自動車道「岡山総社インターチェンジ」から25分、新本川の堤防上を走る県道80号上高末総社線の沿線に位置する。近くに総社市西出張所がある。