孝子庄右衛門誕生地碑(山口与十郎と芝村騒動)
宝暦3年(1753)、大和国(奈良県)十市郡の芝村藩預地では百姓が高率の年貢に苦しみ、減免を求めて京都町奉行に越訴に及びました。結果として村々の負担は減少したものの、多数の百姓が牢死したほか、常盤村庄屋・彦市が死罪、八条村庄屋・与十郎らが遠島となりました。現地にはこの「芝村騒動」の犠牲者を供養する墓碑などが残るほか、遠島の父を介抱するため渡海した息子・庄右衛門の孝行譚も伝わっています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代中期、芝村藩織田家の預地となっていた大和国十市郡の幕府領9か村は重税に苦しみ、たびたび芝村役所に年貢減免を訴えるものの聞き届けられませんでした。
その後、南都奉行所に出訴するものの音沙汰がなかったことから、宝暦3年(1753)11月、9か村の百姓は秋の稲刈りを拒否した上、徒党を組んで京都町奉行所へ箱訴に及びました。芝村藩支配では高免のため亡所となってしまいかねないので幕府直轄に戻してほしいとの訴えでした。
百姓たちは芝村藩の取調べを受けた上、江戸に下って勘定奉行の吟味を受けました。召喚された百姓の数は約2百人に及び、うち38人が牢死しています。
そして宝暦5年(1755)8月7日、ようやく判決が出され、十市郡常盤村(今の橿原市)庄屋・彦市が死罪(実際には既に牢死)、八条村庄屋・与十郎ら4人が遠島、他に32人が追放となりました。この「芝村騒動」では多くの犠牲を伴いましたが、村々の負担は減少したため、後に犠牲者の位牌や墓碑・記念碑が多く造られました。
うち新島に遠島となった山口与十郎は、彼の地で眼病を患って失明してしまい、9尺四方の粗末な庵で寂しく暮らしていたところ、思いもかけず息子・庄右衛門の訪問を受けました。庄右衛門は西国巡礼中の元流人から父の近況を聞き、介抱のため領主に願い出て新島に渡っていました。
安永7年(1778)の恩赦では父子揃って帰郷し、幕府や藩から褒美を賜っており、堤定賢は『大和国十市郡八条村孝子庄右衛門父子乃記』の中で「類ひ稀なる孝子」と賞賛しています。
庄右衛門の生誕地には戦後「孝子庄右衛門誕生地碑」が建てられ、地元の極楽寺には与十郎の墓も残されています。
参考文献
『田原本町史』(田原本町史編さん委員会編 田原本町、1986年)
『橿原市史』上巻(橿原市編 橿原市、1987年)
『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友・上田龍司 青垣出版、2016年)
孝子庄右衛門誕生地碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
孝子庄右衛門誕生地碑
場所
奈良県磯城郡田原本町千代地内
備考
国道24号「千代」交差点から東に200メートル、春日神社の前面道路沿い、玉垣の角にある。