置塩神社(滑甚兵衛と播磨寛延一揆)

置塩神社
姫路藩領の全藩一揆を率いた頭取たちを祀る神社

2023年6月16日義民の史跡

凶作や御用金賦課により百姓の負担が増大した播磨国(今の兵庫県)姫路藩領では、寛延元年(1748)から翌年にかけて1万人規模の全藩一揆が発生し、鎮圧後に飾西郡古知之庄村滑(今の姫路市)の甚兵衛が磔となるなど、多数の百姓が処罰されました。現地には甚兵衛を密かに供養した「浄土三部妙典塚」が残り、郷土の義民として「置塩神社」にも祀られています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の姫路藩は、初代藩主の池田輝政と彼の築いた国宝・姫路城で知られますが、その後は本多家・榊原家・松平家と大名が頻繁に交代して安定せず、転封の都度、費用を捻出するための重税が掛けられていました。

寛延元年(1748)には松平明矩が姫路藩主でしたが、このとき9代将軍・徳川家重の襲封を祝賀する朝鮮通信使が来日することになり、藩主が接待役を命じられたため、費用捻出を理由として領内に臨時の御用金2万両を課し、百姓の負担は増大していました。

その上に台風の被害による凶作が重なり、播磨国飾東郡内の百姓3千人が集結して年貢減免を要求する一揆が起こりますが、同年11月には藩主・松平明矩が死去、幼少の嫡男・松平朝矩が家督を継ぐものの、西国の要衝の地を幼君に委ねることは不適切で、またも転封が確実な情勢となっていました。

この一揆の動きを組織化したのが播磨国飾西郡古知ノ庄滑(なめら)の百姓・甚兵衛といわれ、塩田の利兵衛や又坂村与次右衛門らとともに、翌寛延2年(1749)1月28日に蜂起、飾西郡前之庄村(今の姫路市)の大庄屋・北八兵衛の屋敷を打ちこわしたのをきっかけに、他郡の百姓も加えて1万人規模の全藩一揆へと拡大し、庄屋や御用商人などの屋敷60軒あまりを打ちこわしながら姫路城下まで迫りました。

姫路藩では寡勢のために藩兵による鎮圧ができず、一揆勢の中に浄土真宗の門徒が多かったことから船場御坊本徳寺の僧侶に説得を依頼し、大坂町奉行からも与力が出張してようやく鎮圧に成功します。その後は345人が捕らえられ、1年がかりの大坂町奉行による取調べの末、甚兵衛が磔、利兵衛と与次右衛門が獄門となり、そのほかにも死罪・遠島・追放・過料などの刑罰を受けた者が多数に上りました。

特に甚兵衛は大庄屋打ちこわし後、自宅を「なめら会所」と称して自治活動の場に提供していたことから重罪とされ、姫路に送り返された上、寛延3年(1750)9月23日に市川河原で処刑され、他に大阪で既に処刑された百姓とともにその首を河原に晒されました。

滑甚兵衛の墓はしばらくは造立することもできませんでしたが、三十三回忌にあたる安永10年(1781)になって、一字一石経を埋めた経塚(「浄土三部妙典塚」)が供養のため密かに営まれました。昭和29年(1954)には法恩寺住職の主唱により、3人の義民を祀る「置塩神社」も創建されています。

参考文献

『寛延二年姫路藩百姓一揆と滑甚兵衛』(島田清 清水澄海、1955年)
『兵庫県史』第4巻(兵庫県史編集専門委員会編 兵庫県、1979年)
『姫路市史』第3巻(姫路市市史編集専門委員会編 姫路市、2009年)

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置塩神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

置塩神社

場所

兵庫県姫路市夢前町古知之庄地内

備考

中国自動車道「夢前スマートインターチェンジ」から車で5分、兵庫県道67号姫路神河線沿いに鎮座する。神社下に駐車場がある。

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関連する他の史跡の写真

❶義民滑の甚兵衛塚
❷義民塩田の理兵衛塚
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❹船場本徳寺

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)