心諒尼公園(小山弥兵衛と生野一揆)
元文3年(1738)、凶作が続く但馬国(今の兵庫県)生野代官所支配の村々では、年貢減免や夫食拝借を求めて約3千人が代官所に強訴し、要求は認められるものの、その後は死罪6人を含め多くの百姓が処罰を受けました。朝来郡東河庄野村(今の兵庫県朝来市)年寄役の小山弥兵衛も壱岐島(今の長崎県壱岐市)に遠島となりますが、寛政2年(1790)に弥兵衛を慕って渡海した孫娘・やえと感動の再会を果たしました。今でも現地には犠牲者を悼む供養塔や石碑などが多く残されています。
義民伝承の内容と背景
元文3年(1738)12月16日、但馬国生野銀山で「下財」と呼ばれていた鉱夫たちが銅価格の下落などに反発して一揆を起こし、代官所に銀100貫目と160石の救恤米の支給を約束させました。
この一揆に触発され、凶作が続く中にあって高免を課せられていた生野代官所支配の村々でも、12月29日に3千人の百姓が年貢引下げや夫食拝借を求める「生野一揆」を起こしました。
代官・小林孫四郎は年貢減免や飢夫食の支給を約束し、代官所を包囲した百姓らを解散させるものの、翌年正月に近隣の姫路藩や出石藩から援兵が到着すると態度を一変させ、関係者の捕縛に乗り出しました。
京都町奉行による吟味の結果、死罪6人・遠島8人・追放9人の処罰が決まり、死罪は7月12日に京都西土手刑場で執行され、うち5人の首級は油紙に包み箱に入れられて但馬国朝来郡竹田町(今の朝来市)に運ばれ、7月13日から17日までの5日間にわたり下河原で獄門に懸けられました。
朝来郡野村年寄役の小山弥兵衛も、村々に一揆を呼び掛ける廻状をしたためたとして壱岐島(今の長崎県壱岐市)に遠島となり、最初は海岸近くの高台にあった見性寺、後に内陸の暦応寺に預けられました。
弥兵衛は砂の上に文字を書いて子供らに教えたり、荒れ地の開墾や植林、わらじづくりを行うなどして島民から慕われました。
一方で弥兵衛の子・次郎右衛門の三女にあたるやえは、祖父への思慕やみがたく、桐葉庵の清月尼の下で出家して「全鏡」の法名をもらい、21歳のとき男装をして壱岐へ托鉢の旅に出掛けました。
筑前国(今の福岡県)安国寺で暦応寺への紹介を取り付けた全鏡は、寛政2年(1790)に壱岐島に渡り、ようやく年老いた弥兵衛と対面することができました。
弥兵衛は自分が元気であることを故郷に知らせるため、全鏡にクスノキの苗木3本を託したといい、うち浜家に伝わる1本のみが「法宝寺のクスノキ」(法宝寺は戦前に大雪で倒壊したため浜家屋敷跡に再建された)として現存し、朝来市の天然記念物に指定されています。
その後全鏡は弥兵衛の世話をするため月1度の割合で安国寺と暦応寺の間を往復していましたが、寛政4年(1792)に弥兵衛が85歳で没すると遺骨を携えて故郷に戻り、再興した水月庵(今の「水月院」)に「心諒尼」を名乗って止住しました。
その心諒尼も天保14年(1843)に79歳で亡くなりますが、弥兵衛と心諒尼の墓がある一帯は現在「朝来市心諒尼公園」として整備されているほか、心諒尼の伝記『孝尼心諒伝記』が朝来市有形文化財の指定を受けています。
また、壱岐島にある暦応寺(廃寺)の跡にも、流人には異例の「吉祥院玄鏡了義居士」という院号をもつ小山弥兵衛の墓石が残っており、こちらは壱岐市指定文化財(記念物)となっています。
参考文献
『朝来志』巻12(木村発編 木村発、1903年)
『東洋義人百家伝』第2帙下(小室信介 案外堂、1884年)
『兵庫県史』第4巻(兵庫県史編集専門委員会編 兵庫県、1979年)
心諒尼公園の場所(地図)と交通アクセス
名称
心諒尼公園
場所
兵庫県朝来市和田山町野村384番地
備考
北近畿豊岡自動車道「和田山インターチェンジ」から北に車で10分、兵庫県道273号金浦和田山線沿いに「心諒尼公園」と書かれた小さな看板がある。山道の入口に駐車場があるが、ここから先は徒歩となる。