北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)
天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権の「喧嘩停止令」に違反したとして、この翌年、25人が磔刑に処せられました。地元では命よりも水を選んだ義民と讃えられ、「北郷開樋殉難者之碑」などの石碑が建っています。
義民伝承の内容と背景
かつての武庫川は河床が周辺の平地よりも高い天井川のため、農業用水の取水には向かず、たびたび旱魃に悩まされていました。こうした中、武庫川から分かれた枝川(埋め立てられた今の甲子園筋)流域にある瓦林村が築堤をしたことが契機となって、下流の鳴尾村では用水の確保が困難となりました。
天正19年(1591)の旱魃の際には、窮地に陥った鳴尾村の百姓たちが枝川の河床の下を掘り抜き、くり抜いた四斗樽をいくつも並べて瓦林村の用水から無断で取水を行ったため、両村の大乱闘事件に発展しました。
これを「天正北郷樋事件」といいますが、事件の顛末は豊臣政権に伝えられ、奉行衆による裁決の結果、鳴尾村の水利権は認められたものの、翌天正20年(1592)10月12日、「喧嘩停止令」に違反したとして鳴尾村の25人、瓦林村の26人が大坂で処刑されました。伝説によれば、片桐且元から命は惜しくないかと問われた村人たちは迷わず水を選び、ために樽の数と同じ人数が犠牲になったといいます。
同時代に興福寺多聞院主・英俊が記した『多聞院日記』は、「摂州ノ百姓共去夏水事喧嘩ノ衆八十三人ハタ物ニ被上了ト」として83人が「ハタ物」(磔刑)にされたとの風聞を載せ、ことに13歳の「童部」が父の身代わりに処刑されたことを「哀事」としています。
天明7年(1787)年には鳴尾村民が「北郷開樋殉難者之碑」を浄願寺境内に建立してこれらの義民を供養しており、同寺の寺宝にも六字名号と殉難者の名前を記した掛け軸や、水利権を認めた「豊臣氏奉行衆裁許状」が残されています。昭和に入ってからも北郷公園や八ツ松公園に石碑が建てられるなど、今なお顕彰が続いています。
参考文献
『武庫郡誌』(武庫郡教育会編 武庫郡教育会、1921年)
『鳴尾村誌』(鳴尾村誌編纂委員会編 西宮市鳴尾区有財産管理委員会、2005年)
北郷開樋殉難者之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
北郷開樋殉難者之碑
場所
兵庫県西宮市甲子園六番町10番18号
備考
甲子園球場に近い浄願寺の境内墓地にある名号碑で、手前に案内の標柱も設置されている。隣接の八ツ松公園ほかにも義民碑が存在する。