光国稲荷(赤松源右衛門と享保一揆)
享保18年(1733)、丹後国(京都府)田辺城下で年貢率引下げや夫食米貸与を要求する「享保一揆」が起こり、藩は役人を罷免するとともに百姓側の要求を認めました。後になって二箇村年寄・赤松源右衛門が捕らえられて獄門に処せられたため、村人たちは源右衛門を「光国稲荷」として祀り、今なお「赤松義民」と呼ばれ顕彰されています。
義民伝承の内容と背景
丹後国加佐郡二箇村(今の京都府福知山市)は、由良川に面し平素から水害が多い土地柄でしたが、享保18年(1733)の凶作による飢饉の際には、何度か役人に年貢減免を願い出るものの、納期までに何の沙汰もありませんでした。
加佐郡二箇村の年寄・赤松源右衛門と、平百姓である弟の佐兵衛(源右衛門は大庄屋、佐兵衛は庄屋ともいわれる)は親類と相談の上、16人を代表とし、田辺城に押し掛けて夫食米貸与や年貢率引下げなどを要求しました。これに対して田辺藩では郡代を罷免するとともに、1割2分を標準として5か年の免下りをすることなどを約束しました。
二箇村でも以後は年貢が700石から620石へと80石の減石となり、処罰者もなく成功裏に終わったかに見えましたが、藩は後になってから首謀者16人を捕らえて入牢させ、うち12月21日に二箇村の赤松源右衛門と弟の佐兵衛を獄門、年寄・又右衛門を打首とし、他の13人については首代として1人当たり銀120匁を出させて釈放しました。獄門首は由良川の井戸の渡し場に晒されたものの、家人が密かに盗み取って埋葬したといわれます。
この赤松源右衛門・佐兵衛兄弟は地元では「赤松義民」と呼ばれており、二箇村の氏神である十倉神社境内に「光国稲荷」として源右衛門が、二箇下の愛宕山麓に「鈴岡稲荷」として佐兵衛がそれぞれ祀られています。
参考文献
『新編物語藩史』第7巻(児玉幸多・北島正元監修 新人物往来社、1977年)
光国稲荷の場所(地図)と交通アクセス
名称
光国稲荷
場所
京都府福知山市大江町二箇113番地
備考
京都縦貫自動車道「舞鶴大江インターチェンジ」から車で5分、府道55号舞鶴福智山線沿いの十倉神社の石段を登って境内正面向かって右端に鎮座する。十倉神社の高台を下りた北側にもかつて赤松家が寄進したという社地があり、こちらには「享保義民顕彰碑」が建てられている。