大石義民の碑(庄屋彦治と富川村越訴)
慶長18年(1613)、膳所藩の重税に悩む近江国粟太郡富川村(今の滋賀県大津市)庄屋・彦治と弟の源吾は、鈴鹿峠を通る幕府巡検使に直訴し、重税は免除されたものの、兄弟ともに磔刑に処せられました。大正8年(1919)、この兄弟を顕彰するため、関津峠に「大石義民の碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代初期、瀬田川沿いの山あいにある滋賀県大津市の大石地区は、膳所藩主・戸田氏鉄(うじかね)の領地となっていました。
ここは中世、「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助の先祖が大石庄の下司職を務めており、苗字の由来になった土地であるほか、さらに歴史を遡れば、古代、逢坂関・龍花関とともに平安京を守るための「江州三関」が置かれた土地でもあります。
膳所藩では、瀬田川を通って琵琶湖に至るための積出港となる関ノ津に浜代官を置いて支配していましたが、山越えをして薪炭や木材を運ぶ村人たちに対しても、人馬役と呼ばれる通行税をはじめとする重税を課し、炭焼きで生計を立てる上での死活問題となっていました。
重税にあえぐ村人を見かねた近江国粟太郡富川村の庄屋・彦治とその弟・源吾は、慶長18年(1613)11月、鈴鹿峠を通る幕府の巡見使に直訴し、翌年の慶長19年(1614)2月24日、佐馬野峠(関津峠)で磔刑に処せられました。しかし、同年5月20日には「関津村ニて申し付け候人馬役の儀、免し置き候」という戸田氏鉄の黒印状が富川村を筆頭とする大石5か村にもたらされ、悲願であった免税を勝ち取ることには成功を収めています。
人々は富川村彦治・源吾兄弟に感謝し、往生寺に大石5か村の庄屋を発起人とする小さな墓碑を建てて供養していましたが、大正8年(1919)、この兄弟の事績を顕彰するため、処刑地にあたる関津峠にも立派な「大石義民の碑」が建てられ、日吉神社(今の日吉大社)宮司の笠井喬が撰文し、題額は滋賀県知事の森正隆が揮毫しています。
参考文献
『新修大津市史』第9巻 南部地域(大津市役所編 大津市役所、1987年)
『庶民からみた湖国の歴史 歴史の地底に脈うつ群像』(滋賀県歴史教育者協議会編 文理閣、1977年)
大石義民の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
大石義民の碑
場所
滋賀県大津市大石東1丁目地内
備考
京滋バイパス「南郷インターチェンジ」から車で10分、滋賀県道29号瀬田大石東線沿いにあり、駐車場も完備されている。