栗村吉次郎の墓(綾部藩領栗村吉次郎の強訴)

栗村吉次郎の墓

義民の史跡

享保20年(1735)、綾部藩領の丹波国何鹿郡栗村(今の京都府綾部市)の百姓らは、洪水を理由に「御救」を要求して城下で強訴に及び、その責を負って栗村の高橋吉次郎が打首となりました。本福寺には供養のために吉次郎の名を刻んだ梵鐘と墓がつくられたほか、首塚の伝説も残されています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代中期の享保20年(1735)7月晦日(30日)、綾部藩では年貢高を決める作柄調査に当たる「検見」(けみ)の下見のため、領内の大庄屋を郡奉行のもとに集めていました。

この日、由良川右岸の丹波国何鹿郡小畑組・栗村組(今の京都府綾部市)の百姓らは大挙して綾部城下に押し掛け、洪水で飢え死にしそうなので「御救」が必要だと、大手門前で鎌などを手にして口々に訴えました。当時の「藩日記」には、この様子が「百姓共凡人数大手御門迄大勢相詰御救之願洪水ニ付必至と給物無之及渇命候願口々声高ニ申鎌なと持参嗷訴(ごうそ)仕候」と書かれています。

強訴のくわしい顛末は不明ですが、責任を問われた栗村百姓・高橋平九郎の弟である吉次郎は、翌年の元文元年(1736)8月22日、34歳にして由良川の味方河原で打首となり、その首は獄門に懸けられました。

吉次郎の胴体は高津村(今の綾部市)の本福寺に葬られて墓が建てられたほか、元文4年(1739)冬には「能覚群萌(ぐんもう:生きとし生けるもの)、夢者全醒」などの銘とともに「高橋氏次男吉次郎、法名 法岸院智貞」とその名を刻む梵鐘も鋳造されました。梵鐘にもともと刻まれていた講中4人と鋳物師の名前は後から不自然に削り取られており、栗村吉次郎の強訴伝説をいち早く紹介した加藤宗一著『三丹百姓一揆物語』は、その理由について「藩のキヒ・・にふれたことは、吉次郎強訴と関連しているだけに想像に難くない」としています。

なお、当初鋳造された梵鐘は、昭和17年(1942)、いわゆる「くろがねの動員令」により国に供出されたため現存せず、鐘銘の写しのみが本福寺に残されていましたが、義民供養を目的とした貴重な梵鐘であることが明らかとなったため、昭和26年(1951)に地元の寄付を募って再鋳され、翌年の昭和27年(1952)には撞始式が催されました。

また、強訴に先立つ正徳元年(1711)、吉次郎の父・高橋三左衛門は、夭折した2人の我が子を弔うため、枝村に当たる福垣村の村境にある墓地近くの土手に「南無妙法蓮華経 萬霊 浄春童子 妙二童女」と刻む題目碑を建てています。吉次郎の家は酒屋を営んでおり、多数の使用人を抱えていましたが、そのうちの一人が暗夜の稲光を利用して晒されていた吉次郎の首を盗み出し、碑の下に埋葬したという首塚伝説も残ります。

参考文献

三丹百姓一揆物語第三集『栗村吉次郎の強訴・綾部の筵旗』(加藤宗一 加藤宗一、1951年)
『中筋村誌』(中筋村誌編纂委員会編 中筋村誌編纂委員会、1960年)
『綾部市史』史料編(綾部市史編さん委員会編 綾部市、1977年)

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栗村吉次郎の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

栗村吉次郎の墓

場所

京都府綾部市高津町松ケ崎16

備考

「栗村吉次郎の墓」は、綾部市高津町の日蓮宗「本福寺」境内、本堂左手にある墓地の手桶棚のすぐ脇に、経緯を記した「義民之碑」とともに建てられています。JR山陰本線「高津駅」から南側に見える山麓に向かって歩いて15分、県道8号福知山綾部線沿いの「協立病院前」バス停から歩いて10分ほどです。JR山陰本線・福知山線、丹鉄宮福線「福知山駅」から京都交通バス(福知山線)に乗車して約20分、JR山陰本線「綾部駅」から同一路線に乗車して約10分で「協立病院前」バス停に到着します。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)