広告
書誌

近世義民年表

『近世義民年表』は、近世の百姓一揆などで活躍した物語や伝承を有し、顕彰活動が行われている「義民」に焦点を当てて年表化するとともに、関連する史実や物語・伝承の内容、顕彰行為その他の事項を取りまとめたものです。 『近世義民年表』のあらまし 『近...
書誌

百姓一揆事典

『百姓一揆事典』は、1590年から1878年までの、百姓一揆を中心にした民衆運動の内容や関係人物、関係史料などについて、それぞれ項目を立てて編年でまとめた事典です。 『百姓一揆事典』とは 『百姓一揆事典』は、天正18年(1590)から明治1...
書誌

編年百姓一揆史料集成

『編年百姓一揆史料集成』は、天正から慶応までの287年間にわたる全国の百姓一揆・村方騒動・小作騒動・都市騒擾・国訴関係の史料を収録した書籍群です。 『編年百姓一揆史料集成』とは 『編年百姓一揆史料集成』は、村方騒動や国訴、都市騒擾などを含む...
先賢・循吏の史跡

滝本の代官塚

江戸時代中期、美作国(今の岡山県)の幕府領で代官を務めた重田又兵衛信征のぶゆき・池田仙九郎但季ただすえの両人は、困窮した農村を救済して領民から慕われ、勝北郡北野村(今の勝田郡奈義町)に両人の名を刻む「代官塚」が建てられました。
先賢・循吏の史跡

郡代塩谷の碑

江戸時代後期、塩谷しおのや大四郎正義は19年にわたって豊後国日田郡(今の大分県日田市)の日田代官・西国郡代を務め、小ヶ瀬井路の開削や三隈川の通船工事など、民政面で多くの実績を上げました。塩谷大四郎が郡代解任の後に江戸で亡くなると、日田の人々...
先賢・循吏の史跡

石黒神社

鹿田かった代官の石黒小右衛門政宇まさずみは、宝暦5年(1755)に旭川の大洪水があった際、飢えに苦しむ美作国真島郡向津矢むかつや村(今の岡山県真庭市)の人々を救うため独断で年貢を半減し、幕府の許しが得られないと知ると、その責任を負って自害し...
先賢・循吏の史跡

酒井七左衛門の墓

境川の水害に悩む美濃国(今の岐阜県)の松枝輪中の人々は、尾張藩の代官を通じて築堤を願い出るものの認められず、畑に盛土をして堤防代わりとする「畑繋堤」を自前で築きました。無届けの「畑繋堤」は何度か取払いを命じられていますが、酒井七左衛門が尾張...
先賢・循吏の史跡

早川代官遺愛碑

江戸時代の天明年間から久世代官・笠岡代官を務めた早川八郎左衛門正紀まさとしは、赤子間引きの禁止や農桑の奨励、学校創設などさまざまな施策で疲弊した農村の復興に尽力し、4度にわたる留任願いが出されるほど領民に慕われました。代官が亡くなると、人々...
先賢・循吏の史跡

井戸平左衛門の墓

江戸時代の享保年間、大田代官・笠岡代官となった井戸平左衛門は、「享保の大飢饉」で深刻な状況にあった村々の年貢を減免するとともに、陣屋の米蔵を独断で開いて飢えた人々に食糧を分け与えました。また、救荒用作物として優れた甘藷の栽培を領内に普及させ...
先賢・循吏の史跡

沢君遺愛之碑

江戸時代、尾張国中島郡(今の愛知県稲沢市)は湿気の多い土地柄のため百姓は難儀をしていましたが、尾張藩の清須代官となった沢園兵衛は、須ヶ谷川の開削を進めるなどしてこの窮状を救いました。地元では沢園兵衛を祠に祀るとともに、「沢君遺愛之碑」を建て...
先賢・循吏の史跡

頼杏坪充糧碑

広島藩儒として知られる頼杏坪は、備後国(今の広島県)三次郡の代官などを歴任し、荒廃した農村の立直しにも取り組んでいます。神社で敬老会を催し民心の掌握に努めるとともに、飢饉対策として領民に実のなる柿の木を植えさせました。3千本の植樹が成就した...
先賢・循吏の史跡

五穀神社

筑後国(今の福岡県)久留米藩では、夏物成の増税を契機に「享保の一揆」が起こりましたが、家老・稲次因幡正誠の決断により、百姓側の犠牲者を出さずに事態の収拾が図られました。この一件で藩主と不和になった稲次因幡は家禄を没収され、蟄居先であえなく病...