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義民の史跡

源三神社(岩本源三と可須村越訴)

江戸時代の壱岐島は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して蓄財したり、農民に田地を割り当てる地割で不正をしたとして、文政2年(1819)、壱岐国壱岐郡可須村(今の長崎県壱岐市)百姓の岩本源三が江戸に上って将軍・徳川家斉に...
義民の史跡

安政義人慰霊之碑(長崎村茂右衛門騒動)

安政5年(1858)、加賀藩領内の米価高騰を理由に、山間部の越中国砺波郡長崎村(今の富山県南砺市)をはじめとする五箇山地方の農民らが井波町(今の南砺市)で打ちこわしを行い、頭取として長崎村茂右衛門が磔刑に処せられました。戦後、かつての刑場跡...
義民の史跡

漁民義人塚(佐賀野屋久右衛門とバンドリ一揆)

享保元年(1716)、越中国放生津町(今の富山県射水市)では加賀藩により特権を認められた「六軒問屋」に対する反発が高まり、漁民400人が奉行所に強訴する「バンドリ一揆」が起こりました。この責任を負って惣代の佐賀野屋久右衛門ら2人が処刑されま...
義民の史跡

菅原神社(吉岡村市兵衛と頸城質地騒動)

享保7年(1722)、幕府の流地禁止令を曲解した越後国(今の新潟県)頸城郡の百姓たちが、質流れの田畑を実力で取り戻そうとする「頸城質地騒動」が起こりました。幕府は禁止令を撤回したものの、質置人惣代の頸城郡吉岡村(今の上越市)百姓・市兵衛ら多...
義民の史跡

法界平等碑(永田隆三郎と弘化大一揆)

弘化4年(1847)、肥後国(今の熊本県)天草地方で一種の徳政令に当たる「百姓相続方仕法」の延長を巡って1万5千人規模の「弘化大一揆」が発生し、「銀主」と呼ばれる高利貸しの屋敷などが打ちこわしに遭いました。この一揆では天草郡古江村(今の天草...
義民の史跡

義民岡村権左衛門碑(権左衛門騒動)

幕府領から長岡藩領への村替えにより年貢負担が増大した越後国三島郡川西組9か村(今の新潟県長岡市)は、寛政3年(1791)、浦村組頭・岡村権左衛門を頭取として代官所に年貢減免を訴えたところ、強訴徒党の罪により権左衛門のみが討首獄門の極刑に処せ...
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高橋源助の墓(高橋源助と首賭けの筒)

天和元年(1681)、旱害に苦しむ村人のために越後国(今の新潟県)曽根組割元庄屋・高橋源助が用水路を開削したものの、反対者の妨害に遭い通水せずに打首となりました。人々は墓標代わりに榎の木を植えて首塚としていましたが、昭和に入って改めて石祠が...
義民の史跡

明和義人顕彰之碑(涌井藤四郎と新潟明和騒動)

明和5年(1768)、越後国新潟町(今の新潟県新潟市)で長岡藩が賦課した御用金に反対する大規模な打ちこわしが発生し、これを契機に町中惣代の湧井藤四郎らを中心とする住民自治が生まれました。この「新潟明和騒動」では最終的に藤四郎らが獄門となるも...
義民の史跡

五十志霊神社(大竹与茂七と与茂七騒動)

正徳2年(1712)、越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)名主・大竹与茂七は、大庄屋の不正を新発田藩に訴えるものの、大庄屋へ非義を申し掛け徒党強訴に及んだとして翌年獄門となりました。後に与茂七を供養するための「与茂七地蔵」などが建てられ...
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山陰百姓一揆供養塔(畝原覚之丞と山陰一揆)

元禄3年(1690)、郡代の苛政に耐えかねた日向国臼杵郡山陰村(今の宮崎県日向市)の百姓たちが延岡藩領から高鍋藩領へと逃散し、幕府裁定で多数が処罰されました。その一方で藩主・有馬清純も越後国(今の新潟県)糸魚川藩に転封となったことから、後に...
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山田源次郎頌徳碑(山田源次郎と西熊野堂村強訴)

文化13年(1816)、駿河国駿東郡西熊堂村(今の静岡県沼津市)の名主・山田源次郎は、重税で困窮する農民たちのため、沼津藩に年貢減免を嘆願するものの聞き入れられず、ついに藩主・水野忠成への強訴に及びました。山田源次郎は首謀者として投獄され、...
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首切り地蔵(増田五郎右衛門と蓑着一揆)

文化13年(1816)、田中藩領の駿河国志太郡細島村(今の静岡県島田市)は風災で不作となり、農民たちが藤枝宿に集まり不穏な状況の中、名主の増田五郎右衛門は藩主への直訴に及びました。藩は年貢減免を認める一方、多数の農民を捕縛して首謀者探しを始...