滝本の代官塚

滝本の代官塚

2024年5月3日先賢・循吏の史跡

江戸時代中期、美作国(今の岡山県)の幕府領で代官を務めた重田又兵衛信征のぶゆき・池田仙九郎但季ただすえの両人は、困窮した農村を救済して領民から慕われ、勝北郡北野村(今の勝田郡奈義町)に両人の名を刻む「代官塚」が建てられました。

伝承の内容と背景

享和元年(1801)、江戸幕府の関東代官に転任した早川八郎左衛門正紀まさとしに代わり、重田又兵衛信征が美作国大庭郡久世村(今の真庭市)に陣屋を置く久世代官に任じられました。これに先立つ寛政11年(1799)には、美作国にあった下総国佐倉藩(今の千葉県佐倉市)の飛び地が幕府領となったため、上方筋代官の池田仙九郎但季の管轄に美作国が割り当てられています。

那岐山南麓の横仙地方では、北から「広戸風」と呼ばれる局地的な暴風が吹き荒れることがあったほか、旱魃や洪水もしばしば起きたため、農村の疲弊が進んでいました。元文4年(1739)には凶作を契機とする「勝北非人騒動」(横仙一揆)が発生し、北野村の高持百姓だった藤九郎と与三右衛門が発頭人として死罪になっています。

このような農村の窮状を踏まえ、両代官は年貢の割当てを減らしたり、池を造って灌漑するなどして百姓の救済を図ったため、文化12年(1815)、北野村西分・東分の百姓中により、瀧神社の仮社の前に代官の名前を刻む顕彰碑が建立され、これが「滝本の代官塚」として今に残っています。碑の表面には「御代宦 池田仙九良 重田又兵衛 塚 文化十二亥正月廿七日」とあり、他にも旧宮内村(今の奈義町)に同様の「宮内の代官塚」があるのが知られます。

かつては旧暦3月18日を期して「センドウフミ(千度踏)」と呼ばれる感謝祭が行われていました。これは天王社(今宮神社)から神職を伴った行列が塚までを千度お参りする行事で、塚に榊を立てておいてお参りのたびに1枚ずつちぎって供え、千枚になるまで繰り返す風習がありました。現在では新暦4月に瀧神社の「千度踏恩徳感謝祭」として、地元の人たちが「代官塚」に詣でる行事があります。

なお、『寛政重修諸家譜』に池田仙九郎は「関東をよび伊豆国川々の普請をうけたまはりしにより、時服二領黄金二枚をたまふ」と、重田又兵衛は「東海道をよび甲斐国川々普請の事をうけたまはりしにより、黄金二枚をたまふ」とあり、過去ともに治水関連の功績があったことが記されています。

池田仙九郎は、大和国五條代官(今の奈良県五條市)時代に教諭所「主善館」を設立し、『五條施教』をテキストに庶民教育に努めたほか、「天保の大飢饉」の際には出羽国柴橋代官(今の山形県寒河江市)として夫食拝借などを通して百姓の救済を図ったことから、仙九郎没後の天保6年(1835)、元の領民により「池田府君仁政之碑」が建てられ、現在も旧寒河江市立醍醐小学校跡地の一角にあります。

重田又兵衛についても、前任の久世代官・早川八郎左衛門が設立した「典学館」を継承して領民の教化をすすめ、久世村百姓の養女・八重の親孝行を勘定奉行に上申して褒美を与えたり、享和年間に火災で焼失した興善寺の再建を図るなどした事績が知られています。この興善寺には典学館都講・菊地正因や重田又兵衛の母と息子の墓が残るほか、中門は典学館の門を移築したものです。

参考文献

『徳川幕府全代官人名辞典』(村上直・和泉清司・佐藤孝之・西沢淳男編 東京堂出版、2015年)
『岡山民俗』3(岡山民俗学会編 名著出版、1981年)
『久世町誌』(石井常太郎編 久世町誌刊行後援会、1932年)
『寛政重修諸家譜』第2輯・第8輯(堀田正敦編 国民図書、1923年)
『新訂作陽誌・東作誌参巻』(正木輝雄編、矢吹金一郎校 作陽古書刊行会、1923年)

広告

滝本の代官塚の場所(地図)と交通アクセス

名称

滝本の代官塚

場所

岡山県勝田郡奈義町滝本地内

備考

「滝本の代官塚」は、国道53号「滝本」交差点から北に650メートル入った道路沿いにあります。「滝本」交差点の角にはローソン岡山奈義町店と滝本郵便局があり、さらに交差点の東100メートルに中鉄北部バス「滝本局前」バス停があります。JR姫新線・因美線・津山線「津山駅」から中鉄北部バス行方・小坂線で「滝本局前」までおよそ40分、バス停から「滝本の代官塚」まで歩いて10分です。なお、途中の道路沿いには「元文一揆発頭人義民藤九郎・与三右衛門之慰霊碑」も建てられています。

広告

関連する他の史跡の写真

宮内の代官塚

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)